集まっていただいてどうもありがとうございます。今回は、「対話」ということについてです。

 なぜこういう集まりをもったかということですが、対話が成り立たないということが今、あちこちで起きていて、お3方はそれぞれの立場から様々なことを投げかけていらっしゃいます。平田さんは、対話の言葉がない、人間が何人かいた時に、自分たちがもっているコンテクスト、自分たちの世界をうまくすり合わせられない現状があるということをおっしゃっています。演劇のひとつのテーマとして未来の日本語、対話ができるような日本語をどうやって作るかということを、演劇の上演だけではなく、ワークショップをしたりするなかで、提唱していらっしゃいます。

 崎尾さんは、実際に、例えば親と子、子ども同士でコミュニケーションがうまく成立していない。必ずしも悪意をもってしゃべっていなくても、うまく伝わってなかったりとか、あるいはそれに対してリアクションがあった場合に、受け手がひるんでしまって、コミュニケーションを復活することができない。そのことをずうっと何年も臨床という立場から、丁寧に追っていらっしゃいます。

 鷲田さんは、臨床哲学ということをおっしゃっていて、『聴くということ』という本も出されました。哲学というものがいままで一方的にしゃべるということが中心で、個々の個人と対した時に、その人が何を言おうとしてるとか、耳を傾けるというよりも、一方的にしゃべるような感じだった、それに対して聞くことから始めて対話を成り立たせる、もともと哲学の生まれたこと自体がまさに広場で対話をすることから生まれたということで、実際に哲学カフェとかソクラティックダイアローグとか、いろいろな試みをされています。哲学が人文的な知の基礎をともかくも形づくってきたところがあると思うのですけど、その一番深い反省に立ち至っていて、いままでのやり方を変えようとする、いろんな試みをされているというふうに理解しています。


ワークショップがはじまりだった

僕は別に演劇だけをやってきたので、そういう言葉、言葉の問題ももちろんこだわりがあったんですけど、コミュニケーションの問題とか、とくに若い人たちのコミュニケーションの問題なんかに、別に興味があったわけでもないのです。94年にたまたま高校生たちと一緒に一つのお芝居を作って、それからちょっとその関わりが出て、それからいまは非常にワークショップが流行りということもあって、よくワークショップに引っ張り出されるようになってから、そういうことを主に考え出すようになったのです。

 一応、対話ということに関して言いますと、ワークショップはたくさんいろんなテキストを使うのですけど、例えば、こういう椅子が4つあって、汽車の中みたいな形で向かい合っていて、ここに人が入ってきてここに座って、ちょっとワン・クッションあってから、この人が「旅行ですか」と話しかけるというテキストがあるんです。それは何の気なしに2人が話をしていて、ここにひとり入って来た、入って来た人を意識するというのが最初の課題であり、僕がそのテキストを選んだ意味だったんですけど、どうもあまりうまくいかないんです。その高校生とかが、最初、なんでこんなに人に話しかけるのが下手なのかなと思ったんです。それでよく高校生と話をしていくうちに、その高校生が、自分は初めて会った人と話をしたことがない、初めて会った人と話をする経験がないというんです。それはそうなのかと思って、僕はたまたま高校にもいってなかったので、あまりよくわからなくて、で、高校の先生方なんかに聞いても、たしかにそうだと。偏差値で輪切りになって、教室の中でも親しい友達としか話さないので、あんまり他者と話すことはないんじゃないかという話でした。ただそこで考えてみると、でも、ああいうシチュエーションはどうも一般向けのワークショップでもそんなにうまくはいかないです。どうも別に子どもだけじゃないんじゃないかという感じがしてきました。

 もうひとつは、演劇界で言うと、よく言語、コミュニケーション能力の衰退とか、身体性の欠如とかということは、馬鹿の一つ覚えみたいにみんな言うわけですね評論家の側は、演劇世界で。演劇を作る側もそう言うんです、演出家とかが「最近の若い役者は」と言うんですけど。どうもそれもどうなのかなと思っていて、そんなに衰退しているのかと思ったんです。そうじゃなくて基本的に何か日本人のなかに、コミュニケーション能力のなかで欠落している部分があって、それはでもいままでの社会では要求されていなかったんだけれども、いまそれが急速に要求され始めているだけなのではないかという感じが、僕は直観的にしていたので、そこのところをちょっと問題にしてみようと思ってきました。

会話と対話は別のもの

 僕は、まず会話と対話というのは分けて考えてみるべきなのではないかということを考え始めたわけです。カンバセーションとダイアローグというのは違っていて、カンバセーションは今の高校生なんかものすごく得意なわけです。それから演劇的な見方でいうと非常に音感が発達してますから、意味を問わないで会話だけ聞いていれば絶対に若い子たちの会話のほうがきれいなんです、音楽性があるんです。いろんな音でしゃべってますし、いろんなリズムでしゃべっているので、それは中高年がしゃべっている日本語に比べて、日本語ってもともとは母音と子音の組み合わせだけでできているので、平板になりがちなんですけど、若い子たちのほうが促音便とかそういうものをたくさん使いますから、発音も多様できれいなことはきれいなんです。これは演劇的な見方ですね。でも、意味、内容はあまりないというのがひとつの問題があるのですけど。だから別に僕は一方的に衰退してるというわけでもないだろうという感じがあって、じゃあ何が足りないのかということです。で、僕は対話というものの対話の能力というよりも、対話の習慣自体がもともとないのではないか、というふうに考えてきたわけです。

 明治以来いろんな日本語が作られてきて、大学で授業するための日本語とか、裁判をするための日本語とか、演説をするための日本語というのは作られてきたんだけれども、対話をするための日本語だけは作られてこなかったのではないか。それは逆にいえば必要なかったわけです。これまでの日本社会には、異なる価値観をすり合わせるような言語って必要なかったのではないか。だけど今それが急速に求められていて、しかしそういったものを教えるシステムもなければ場もない。社会のなかでのそのシステムもないですから、訓練するというような場所もない、経験も積めない、で、いきなり社会に放り出されて、他者とふれなさいと言われても、それはちょっと子どもたちが、かわいそうなんじゃないかというのがまずひとつ。もうひとつは……。


質問なんですけど、お話の中に出てきたので、もう一回確認のためにおうかがいしたいのは、ワークショップでひとつの作業として、第三者が2人の会話の中に入ってきて、で、車中、コンパートメントのようなところで「旅行ですか」と聞くということの、一番のモチーフというのはどこにあるんですか。


話しかけるにはエネルギーがいる

僕が最初始めたのは、単に他者を意識すること。他人に話しかけるということはたいへんなことだと思うのです。そういう状況の中で、2人が話をしているところで、ひとり来て。まあこれは2人の側からひとりのほうに話しかけるという。そうだとしても、知らない人に話しかけるというのは、ある種のエネルギーが必ず働くんだと思うのです。もちろん主体的に話しかけやすい人もいれば、あんまり自分から話しかけない人もいるわけですけれども、とにかくまずワークショップの受講者に気がついてもらいたかったことは、話すということはすごいエネルギーがいることなんだということ。まず気がついてもらいたいために、その場面を選んだんです。ただ、僕の予想以上にそれが彼らにとっては難しいことだったということがまずひとつ。

 もうひとつの問題は、「旅行ですか?」というセリフなんです。これは比較的経験を積んだプロの会話のためのワークショップでも、このセリフを使うのですけれども、これが今度は逆につるっと言っちゃうんです、この「旅行ですか?」というのを。でもあとで聞くと、例えば汽車の中で乗り合わせた時、自分から話しかけるという人は、全国どこでやっても大体1割から2割、自分からは話しかけないという人は5割ぐらい、時と場合によるというのは3割ぐらい。もう少し参加者と話をしていくと、その時と場合によるというのを詰めていくと、時と場合によるという人がだんだん増えていくわけですけど。どういう場合によるのかということを今度考えてもらうのです、ワークショップの中で。いろんなシチュエーションがあるんですけど、一番多いのはやはり相手が話しかけやすい場合です。この人が話しかけやすいかどうかということがポイントになってくるわけです。で、人によるんですこれも、年上のほうが話しかけやすいという人もいるし、年下のほうが話しかけやすいという人もいるし、同年齢ぐらいが話しかけやすいという人もいる。それから子どもを、赤ん坊を抱えている場合とか。

 で、それに気がつき始めてから、ちょっとワークショップの方法を変えて、こういうことを説明したあとに、グループに分かれて、3人ずつに分かれてもらって、どうすればこの人が話しかけやすいかということを考えてもらうようにした。これも演劇に引き寄せて言うと、今までの演劇教育というのは、結局、人がどうやってこの「旅行ですか?」というセリフを言うかということなんです、技術の問題になってくる。でも実際に話して突き詰めて考えていくと、難しいのはこの話す人よりも話しかけられる人の見られ方なんです。話しかける人が話しかけられやすい状態でないと、話す人がどんなに演劇的な技術をいくらもっていても、話しかけられない。話しかけられる人がずうっと下を向いていたら、この人は話しかけられない。じゃあどうすればいいかを考える。どんな手段でもいいですから話しかけやすいようにしてくださいというのをやるわけです。話しかけられる人が物を落としたりとか、荷物をごそごそやったりとか、網棚に乗せるチームとか、いろいろ工夫するわけです。で、その話しかけるというのがどういう関係なのかということを考えてもらう、そういういくつかのコミュニケーションのシミュレーションみたいなものを、いろいろワークショップのなかでやっていくんですけど。

 もうひとつは、「旅行ですか?」という言葉自体が普通の日本語なんで、つるっと言ってしまう人たちというのはまた別にいるわけです。すごく言いにくい人たちがいる一方で、つるっと言ってしまう、これはほとんど対になっているのですけど。これは結局もう少しセリフらしいセリフ、例えばチェーホフの翻訳劇みたいなものだとものすごく考えると思うのです。例えば「銀のサモワールでお茶を入れたよ」なんていうセリフがあったら、これは考えると思うのです。銀のサモワールって何だというふうに考えると思う、で、百科事典で調べたりとか、ロシア人に聞いたりすると思うのですけど。「旅行ですか?」だと、自分のコンテクストの中にあるように錯覚をしてしまうわけです。でも実際には自分のコンテクストの中にある人は手を挙げてもらうと1割か2割しかいないわけです、自分から積極的に声をかけるという人は。じゃあその「旅行ですか?」と声をかける人を演じる場合に、どっかで自分のコンテクストと重なる回路を見つけてもらわなければいけない。その見つけてもらうということがもうひとつのこれの目的。それはどんな手段でもいい。一度人に声をかけるということ、例えばここでは人に声をかけるということに意識的にまずなってもらうということを今やっている。


通ってるようで通ってない会話

私も時々本の中に「コンテクスト」という言葉を使いますので、今おっしゃっている意味と微妙に重なる部分と違う部分があるだろうなと思っていました。私もふだんやってるところから少し話します。人と人がいて、そこで何かを通わせる時に、通ってるようで通ってない会話というのは実際あるわけです。若い人の会話で、なんか語っているようだけど、それなりにお互いにわかったつもりになっているんだけど、あとから何を話し合っていたんだろうという、会話が非常に多くあるわけです。それと対極のところにある、対話をしにこられる子どもや、親に会うことが多いのですが、一番苦労してるのは子どもであるともいえない、子どもも苦労してるかもしれないけど、その周囲の人も苦労してるわけです。彼らが、来たところで目標としている対話がよそでできるんだったら、こないわけですから、よそではできないわけです。

 だけどここにきて彼らは何を期待してるかは自分たちでもわからないわけです。何かを強く期待をしていて、何か起こってほしいけど、それが自分のレパートリーにないからどうしてよいか分からない。同時に、自分が今までよかれと思ってやってきたことがすべてこのわけのわからない現状に至ってしまったことに私は責任を背負っているのではなかろうかという不安をもってやってきます。いろんなレベルでのメッセージというのは、言葉の音声の中にも含まれますし、それから音声以外の表情、姿勢、そういう言葉で表せないないところから、伝わるわけです。こちらも自分がいったい何を探り当てようとしているか、みたいなことについては、メタで(外から見て)わかるわけではないですから、ただいろんなところで受けて、直観的にあっ、この人が入ってきたいのはここなんだなみたいなことも、勘を頼りにすっと入っていかざるを得ません。入っていったあと展開していくわけですけど、そういう仕事をしていて一番思うのは、ベイトソンが「人間の言葉というのは、関係以外の物を指し示すように作られたんだ」ということです。哺乳動物の時から関係というのは生死の問題でした。言葉がなくてもそれこそ猫が「ニャア・ニャア」と鳴くように、「ニャー」とかいう意味で通じるわけですけど。そうではない「テープレコーダー」とか「椅子」とか言うために作られたのが言葉なわけです。本来名詞を指すことから始まっているので、それによって扱うものが名詞じゃないものはいやでも名詞化されていってしまうというところがあるんです。

 それに気づいて仕事をしているわれわれのような人間は、そこにかなり気を遣わなければいけないし、遣ってないと私に指摘をされるわけです。医学というのは本来どんどん名詞化していくようになっている領域なので、そのへんのところでリエゾン(橋渡し)をやりながら、直接こられる自分の心の問題の方もいれば、そうではなくて体の病気ということでかかっていたらそうじゃなくなっていった時に、極力円滑に得心してもらいながら、安心感をもってもらうための、そういう言語を作っていくのが実は今私がやってる仕事です。これはかなりの訓練を必要とします。だけどそれを求めてる人がこれだけいるからには、広げていかなければいけないなあと思っています。


二人から三人で位相が変わってしまう

最初に平田さんが提示なさったモデルで、おもしろかったのは「旅行ですか?」っていうセリフそのものの問題ではなくて、それの言い方の問題ではなくて、それを言わせるような空気とか場というものを、あるいはそういう言葉を誘発するような、その人の雰囲気というんですか、そういうものが問題だとおっしゃったのですけど。

 今、お2人が「コンテクスト」という言葉が出てきて思ったのは、人間って2人で話している時に第三者の人がいらっしゃって、今度はその3人という、今日もそうですけど、2人のとこで3人になりましたけど、その時に2人の対話というのは、ひとりの人が入って3人になることによって、それまでずうっとしゃべってきたしゃべり方と、コロンと位相が変わってしまいますよね。つまり2の中でしゃべるのと、3の中でしゃべるというのは位相が変換してしまう。なんかそういう言葉というのは、そういうある場の中で語り出されるもので、自分が言いたいことでも、2人向き合って言う時と、3人で言う時と違う。そういう場とか位相のチャンネルを変える、そういう訓練という意味もあるのかなと、そう思っていたんですけど。

 さっきも若い人たちの言葉が、会話としては今若い人のほうが美しいと、あるいは音響的にもおっしゃたこととの関係で言うと、結局2人でしゃべれていたのが、突然3人、第三者が入られることになった時に、うまく言葉が出なかった、若い人ができないということと、それから若い人たちの会話がすごくある意味では音楽的にはかえって美しいと言われることって、まったくなんか僕は無関係のようには聞けなかったんですよ。というのは、若い人たちが、どんな時代でもそうなのかもしれないけれども、内輪の言葉というのはすごく繊細じゃないですか、ちょっとした微妙な言い回しの変化だけでも、それがすごく大きな意味をもっていて、語彙がほとんど共通してるので、その使い方とか、あるいは発し方自体でものすごく大きなメッセージを発してしまうということがありますね。ところがそれが外部の人に対しては、ほとんどディス・コミュニケーションの状態にあって、共通の語彙、例えば僕らだったら違う世代の人たち、とくに今の自分の子どもぐらいの世代の人たちだと、語彙がまずわからないということもあって。だからそういう内にはすごくコミュニケーションというのはこまやかになっていながら、外部というものとの橋渡しをする言葉というものに関してはすごく、あるいはその話し方ということに戸惑いを覚えてるという、なんかそういう問題があると思うのです。

 対話というのは基本的に、内輪で2人で内輪でしゃべることが必ずも対話ではないと思うのです。対話ってダイアローグというのはロゴス、言葉とか、論理とか、理屈ということですけど、それを分けるということですね。話してる中で、だからヨーロッパでのダイアローグというと、異なる意見をもった者が言葉を交わしながら、ひとつのその間から本当のロゴスという、論理というものを探し出して、それを分かち合うというようなイメージで、対話というふうに語られてきたんだけれども、その内輪で非常に細かい、言わなくても、言葉の言い方だけで話が通じてしまうような集団というのは、一見親密な対話を内部ではしているように見えながら、実はこまやかに意思が通じてるということと、対話というそのロゴスを分かち合うということとは、ちょっと違うような感じがするんですね。

 対話というのは、やはりひとり独立した人と独立した人が、理にかなった形で自分を表現することで、僕は普通対話というと共通の考えに達するとか、とくにヨーロッパの対話の場合には、それぞれが最初にもっていなかった、話すことで初めて見えてきた論理を共有するというところがあるかと思うのですけれども、僕は同じ考えにたどりつくとか、合意するとかということ以上に対話で大事なことというのは、相手と自分がいかに違うかということに気づかされる。つまり話せば話すほど、逆に自分と相手との違いというのがわかってきて、違うものとして相手が見えた時、それを鏡のようにして自分の理解も新しくなってくるという、なんかそういうようなできごとじゃないかと思うのです。

 そうするとあのモデルでいった時に、何か平田さんへの反論ではないですよ、あの絵を見て思ったのですけど、2人が対話してるとこに第三者がきてるというよりも、今のコミュニケーションって、対話以前のなんか共振し合うような関係のなかに理屈がきた時に、本当は対話というのはこの第三者と、この人、もしくはこの人が始めることなんですけど、それがうまくいかないのではないかなという、そういうモデルかなというふうに勝手に読み込んだんですけど。


ドラマがはじまる時

そうなんです。一応僕が説明した他者に話しかけるところからが対話なんです。ここで初めて対話というのが始まるんですけど。ドラマっていうのは基本的には対話が始まらないとドラマにならないです。結局同じ価値観の人同士が話をしてても、観てるお客さんはちょっともおもしろくないので、なんか他者が入ってこないといけない。だからこれはドラマの基本的なところなんですけれども。


われわれというか、これ若い人に限らないで、日本語を使ってる文化のひとつのこれまでの難しさというのは、対話というのが言葉に全部託す形でみなあるのではなくて、語られたこと以上に語られなかったことを忖度する、あるいは想像力を働かす、その能力をこの社会ではすごく大事にしてきたというか、会話がうまいということは、実は語られてないことまで届くような想像力をもつことというふうに考えられてきましたよね。それが何かヨーロッパの対話概念というのと、ずいぶん構造的に違うのかなという。


そうですね、ただ、今僕中学校の国語の教科書を作っているんですけれども、やっぱり現場の先生方には、まず会話と対話の違いというのをなかなか通じなくて説明が難しい、実は演劇の場合には、他人が入ってこないと対話にならないというわけでもないですね。僕はよく例に出すのは、例えば『忠臣蔵』というのは、四十七士の人は松の廊下の日までは会話しかしてなかったんです、全員がずっと知り合いで、顔見知りで毎日お城にいって、くだらない仕事をして帰っていくという会話しかしてなかった。ところがある事件をきっかけに、彼らのなかに異なる価値観が表明されてくるわけです。価値観はもともと中にあったはずなんだけれども、それは言葉には託されてなかったものが、あの事件があったために、いや自分は主君のために一緒に今切腹をしたいとか、あるいは自分は仇討ちをしたいとか、私は家族があるからお金をもって大阪で商売しますとか、これは意見の相違が出てくる。そこでドラマというのが基本的に始まるので、結局知ってる人同士でも対話が起こる可能性はあるんです。

 演劇の世界では、そういう何か対話が始まるきっかけを、たいていの場合私たちは運命と呼ぶわけですけれども、とにかく自分の意思ではどうにもならないような運命に直面した時、初めて人間は語り出すんだというのが、ドラマの基本的な構造なんです。そこがやっぱり理解してもらうのがなかなか時間がかかります。

 もう一方では、ディベートと対話はどう違うのかという質問が結構多くて、それは今おっしゃられたように、ディベートいうのはある価値観がある価値観を折伏するということだと思うのです。それに対して対話というのは、異なった価値観どうしがまず異なるということを認めたうえで、それからしゃべっていくうちに自分が変わるということだと思うのです、これもドラマの基本的な要素なんです。演劇は例えば2時間なら2時間の間に主人公の気持ちが変わっていかないとダメなんです。これは高校生とかが書くと変わらないんですよ、最初から最後まで正義の味方は正義を貫くんです(笑)。貫くのがなんかいいみたいな。だけど僕たちから見るとそれはドラマではないんです。ドラマというのはある人とある人が出会った時に、お互いが変わっていかないといけないです。変わっていくことをいさぎよしとする、自分の意見が最初と最後が違う、これも日本的なところもあると思うのです。日本では、変わっていくということをいさぎよしとしないんだと思うんだけれども。思想に殉じるみたいな、そういうとこがあると思うんですけど、対話においては、変わっていくということをいさぎよしとする、あるいはさらに変わっていくということ、他者との価値観とふれ合うことによって変わっていくことに、喜びを見出だすというような態度を身につけてもらうということが大事だと思うのですけど、これもなかなか中学校ぐらいの教育現場にいくと、なかなか理解してもらうのが難しいです。先生方がとくに。

すごく今明快な説明ですね(笑)。実際に授業でワークショップみたいなのをやられていますか。


転校生をめぐる対話劇

そうです。教科書の私が書いた単元の前半の文章は、いわゆる普通の書き下ろし文です、そこでは対話と会話の違い、今言ったような話があって、これからの国際社会とか、あるいは日本の国内でも人口の流動が激しくなるから対話能力が非常に求められているという話があるわけです。それは普通に文章として当然国語の授業だから、読解の教材としても使われるんだけど。その次に対話劇を作ろうというのがあって、中学生ですからそこでは教室で転校生が来るというスキットを僕がもう書いてあって、転校生が来てからのどういう質問をするかとか、それから先生が最後にいなくなるんです、転校生と友達が残るんですけど、そこでまたどういう会話をするかというのも網掛けになっていて、一応基本的な文例を僕は書いてある。でも実際にはそこは生徒が考えて作るようになっている。そこでもだから生徒に意識してもらいたいのは、まず最初朝の教室で、自分たちだけで話してる時と、先生が入ってきて先生がいてどういう話をするかということと、先生がいなくなった時に自分たちはどういう言葉を使ってるかということに気づいてもらうということが重要なんです。

 これもモデル授業を繰り返すんですけど、やっぱり現場の先生からの声としては、まずこれでいいのかという、これ劇じゃないじゃないかという話が出ます。何にもドラマがないから、ドラマというか事件が起きないからこれはいいんです、気がついてもらうだけでいいんで。それからもう一つは、現場の先生からいうと「評価がしにくい」という意見が強いです。これでどうやって採点するんですかと、気がつくだけだから評価はしないでくださいと言います。それから、評価と連動した形で言うと、どうしても先生たちは、例えば「大人が入って来た時には、そういう言葉使いはしないでしょう」という言い方をしてしまうのです。それを言った途端に、もうその単元は終わってしまうんです。子どもたちがふだんまず、自分たちがどういうふうに言葉の使い方が変化しているのかということに気がついてほしい。変化しない子もいていいんですだから、変化しない子もたまにいるんです。でもたいていの場合はやっぱり変化させているんです実際には、自分たちが気がついてないだけで。当然ですけど、もう高校生ぐらいになると完全にバイリンガルみたいに、自分たちの内輪の時の言葉と、外の言葉を使い分けますから。それは中学でもはっきり違う。そのことにとにかく気がついてもらいたいだけなんです、本人たちは無意識でしゃべっているので、気がつくだけで僕は全然いいと思っているんだけれども。

 やっぱり先生は教えるのが仕事なので教えたがる。大人がいる時はこういうしゃべり方という規範があるんです、彼らの中に。それはあってもいいんですけど、もちろんあるんですけどそのひとりひとりが、ひとりひとりのコンテクストがあるんだけれど、それは教師がそれを言った瞬間にもうそれで終わってしまうと僕は思っているんです。教師というのは教室の中では、ある種の権力性をもっているので、それはまあ言うとしても最後に言うべきだと思うのです、教師のコンテクストは最後に表明すべきであって、そこのところは一番難しいといえば難しいですねやっていくのは。


東京以外、たぶん全国だと思うのですけど、関西に僕は育ってきたものですから、関西の子というのはそういう意味での演劇は、3、4歳から知ってます。つまりままごとをする時必ず標準語でやるんです。標準語なんかテレビの会話を真似しているのかわからないけど、もうこんな子がみんな集まって標準語でやってるものですから、担当者はこれまたひどい、そういうバイリンガルって結構早くからある意味で強いられて、地方の子っていうのはやってることですね。


教室での創作は本当におもしろいです。まずおもしろいのは、朝、先生が来る前の時間をつくるのが一番無意識な時間なんで一番難しいんですよ、子どもたちにとって。どうやってしゃべってるの、何の話するのとかいっても、もう黙っちゃうんですねみんな。だってしゃべってないわけないのですが、それはもちろんポツンポツンとヒントは与えて言ってあげるんだけれども、そこが一番子どもにとっては難しいらしくて、それはだから逆にいえば一番価値のあるところなんですけれども。


メタ意識を働かせてことばを聞く

崎尾さんはある意味で、一番言葉の共通の土壌がないところから会話を始めますよね。全然知らない子がやってきて、ただ、対話をするというんじゃない、受け取るという。


受け取るためには中から出させなければいけませんし、その子が自分の中で、自分で気づいてないところを、もともとあったんだけど、気がつかなかったんだよね、みたいなところをポーンと引っ張り出して、気付いてもらうわけです。ある意味では演劇に似ているんだろうと思うんだけども、当然100%なんか不可能なんですけど、いつの間にか自分が日常性の中で使う言葉が、いつもそれに関するメタ意識が働くものになっていくわけですよ。だから人との会話の中でも、「あの時先生ああ言ったじゃないか」と言われても、「ちょっと待って、そのセリフは使ってないよね」といえるわけですよ。その流れははっきり覚えてなくても「いや、それは私は言ってない」「いや、それは言ってない」というと、実はそれは向こうのセリフだったとか、自分はそういうふうにとったからそう聞こえたというふうに聞こえてくるんですね。

 そういう意味での、自分がいつもやってることに対するメタの気づきというのがなかったらできないという世界に身をおいてますよね。そのへんも非常に大変な面もあります。


お2人とも、共通しておっしゃったのは、気づきということですよね、気づきの意味という。だから平田さんの場合だったら、ふだん本当はしてるのに自分で気づいていないことを気づかせる。


誤解を恐れずに言えば、精神科にいく前というと変ですけど、いかない子どもたちが相手なわけです。いかないようにするためにということですね、いかないようにするために気づいてもらうということだと思うのです。ふだんからもう少し自分たちのコミュニケーションに敏感になっていれば、他者の言葉にももう少し、本当に少しでいいと思うんだけれども敏感になって、自分の言葉にも敏感になっていてほしいという感じなんです。


気づきまでの気の遠くなる長いプロセス

敏感になるというか、意識するということは、要するに別の可能性、例えば子どもの場合でしたら、カウンセリングの先生とかお医者さんとか、語る時に気づきということが意味あるとすれば、それは自分がこうだと思い込んでいた自分から距離をとって、別の自分の可能性、つまり自分をもっと違うふうにとらえる可能性もあるということに気づくという意味が大きいように思うのですけれども、そうじゃないですか。


今おっしゃってることは、私の感じでは長いプロセスを、短縮した言い方なんだと思いますね。例になるかどうかわかりませんが、ある患者さんについて、ほかの科とうちの科が一緒にみなければいけないことがあるわけです。ほかの科が、例えば内科の場合に、内科の先生たちは自分たちは心をみていると言われるわけです。申し訳ないけどみえてないよねと思いながら、「そうですか、そうですか」と言いながらやっていくわけです。すると彼らはどの薬を与えたら、どの変数がどう上がったとか、1週間前と今週ではどの治療をしたから、この酵素が上がったとか下がったとか、体重が何キロ減ったとか、そういう話をするわけです。治療が効いたとか効かないとか、そういう話になっていって、目に見えるもの、物化されたものでしか測れないわけです。

 心の治療というのは、基本的にもの化できないというのが大前提です。あっ、心の治療とはあのときはこういうふうに振る舞っていたけど、気がついたらそれじゃない振る舞いをしていたよということを、そのあとで気がついてメタ化をするといいましょうか。ですから今おっしゃっているようなことは、この時の自分と、あの時の自分は違うじゃないかな、それぐらいの変遷があって気づけることだと思うのです。

 この、1回1回の、私どもが患者さんとする面接について、かなりの訓練がなければいけないし、それだけ自分でいろんなことわからなければいけないから、なかなか言葉で言えるものじゃないからと言っても、他科の医者からはその1回の中で客観的に具体的にどういうふうな対話をしていくのか示せと言われるわけですよ。こういう領域で専門家としてやっていくためには、気づきをもたねばなりません。それは結構痛みを伴うことが多いわけですが、それを通過して初めて、こういう時ってこうなんだよねというのを、非常に微妙な感覚で、自分の感覚で感じられるものなんです。それをやっていくんだよみたいなことを言うと、また具体的でないからわからない、みたいな対話を日々、ほかの科の医者たちとやり合うわけです。それで教えてくれといっても教えてくれないと、散々ブウブウ言ってて、直接、私はわりと上のほうに今いるのでさほどそういうバトルに参加しなくてすむのです。バトルは部下ががやってくるわけですけが。部下が最終的に言うのは、30分、40分具体的じゃないからわかんないよとか、ああだこうだ、ああだこうだ言われて、最後に言われたのは、よくわからないから教えてちょうだいみたいなことですって言われるの、やっぱり特定の時間内にそんなことが起こっているわけですね。気づきを育てるというのは、体の経験を通してじゃないとできないことなんだなということを思います。

「治療というのはメタ・コミュニケーションの習慣を変えることである」

 ベイトソンの言い方になりますけど、彼が言ったのは精神の治療なんですが、「治療というのはメタ・コミュニケーションの習慣を変えることである」というふうに言ってるわけです。メタ・コミュニケーションの習慣というのは、身振りであり、手振りであり、誇張であり、表情です。でもそれって変わると対象まで変わりますからね、すべてバイオロジカルなものでつながってますから。いかにメタ・コミュニケーションというものを相手が結果的に変えられるかというとこまでをいつもやっているんだなあと思ったりします。


たぶん演出家というのはほぼそれに近い仕事を俳優に対して、ただ期間が限定であって、しかも目標が明確であって、だからその治療とはそれはもう全然違うのですけど、やってる内容はほぼそれに近いです。毎回別の役をやってもらうわけですから、例えば普通の昼間はラーメン屋でバイトしてる俳優に、稽古の期間だけは王子様なら王子様のコンテクストをもってもらわなければいけないので、それはもうまさにそういうことだと思うのですけど。

 ただ、当然そこに技術が必要です、そうさせるのかという問いに対しては、演出の場合はもう明らかにさせるのですけど、ある技術をもってさせるんです。それは具体的にいえば音の高低とか、リズムとか、強弱とかによって全部還元できることは還元できるんです。ただそれはその前段階として当然人間ですから、還元されたものを先に示されても、本人の中でそれを組み立てられないと、それはもう崩壊してしまうので、それは何か組み立てるきっかけみたいなものを与えてあげないといけないわけです。さっきで言うと、話しかける時に「旅行ですか」というセリフをうまく言えない俳優と、すぐ言える器用な俳優がいるわけです。自分のコンテクストになくてもすぐに言える俳優もいるんですけど、なかなか言えない俳優もいるんです。

灰皿を投げちゃったりする(笑)

 その時に経験の浅い演出家だと、「ほら、そうじゃないだろう、他人と話しかけるときにはそんな言い方しないだろう」ということを言うんです。これはでもすごくナンセンスな話であって、さっきも言ったように、他人に話しかけるという行為自体が非常に特殊な行為で、人口の1割か2割ぐらいしか積極的に話しかけないにもかかわらず、演出家は演出家のコンテクストでしかしゃべれませんし、劇作家は劇作家のコンテクストでしかしゃべれませんから、経験が浅いと相手のコンテクストではしゃべれないので、すぐにそういうふうに高圧的になるわけです。灰皿投げちゃったりする(笑)。それは非常にいらつくことはいらつくんです、僕でもいらつくんですが、何でできないんだプロの俳優なのにと。でもそれは銀のサモワールでお茶を入れたことのない人間が、「銀のサモワールでお茶を入れてよ」と言ってもリアリティーがないのと同じように、汽車の中で他人に話しかけたことのない人間が「旅行ですか」と言ってもそれは難しい。

 でも私たちの技術というのは基本的には、じゃあ、その時あなたはどんなきっかけだったら話しかけられるかということから、外堀を埋めていくようにして時間をかけて「旅行ですか」という一つのセリフにたどりつくんです。その場合二つ問題があって、まず一つは、演出家と俳優の関係でいくと、「旅行ですか」ということがこの俳優は言えないんだということに気がつくということがまず大事なんです。「旅行ですか」というのはさっきからずっと言ってるように、字面からいうと普通の日本語なんで、言えてるようにみんなが思っちゃうんです、でも実は言えてなかったということがあるわけです。本人はまったく無自覚に、実は全然言えてないということ。そのために結果としては入ってくる音が毎回違ったりとか、リズムが違ったりとか、相手との呼吸が合わなくなってきてしまったりするということは、演技の結果として起こる。そのことが一つ。

 それともう一つは、これはまさに臨床ということとまったく同じだと思うのですけど、人によって人に話しかける場合が違うということです。年上の人なら話しやすいという人もいれば、年下の人のほうが話しやすいという。これをどういうふうに演出家と俳優の関係の中で見つけていくかということ、この二つの段階がたぶんあるんだなと思うのですけど、それは治療の場合にはどうですか、その段階というか。


何のため。


まず最初はだから、どこの部分でコミュニケーションが行き詰まるのかということがありますよね、そこを先に見つけるわけですか。


宇宙までいっちゃった人を連れ戻す

いくつか申し上げなければいけない大前提があると思いますけど。われわれの対話というのは、基本的にはどの疾患に合致するよねというのを、いつも頭の中でカテゴライズすることを、モニターしながら聞いてないといけないわけです。これかなと思って振ってみて、そのへんだったらもうちょっと探り入れて、ああ、やっぱりこれだとか、あっ違う、というふうな感じですから、それを知ってなければいけないということとがひとつ。

 それと、今のところはほとんど私が予診とることはなくて、予診というのはほかの人にとらせて、いくつかの情報を引き出したあとで私が会って、キュッとまとめちゃうので、かなりはしょってますけども、やっぱり起こってるプロセスは「何で来たのですか」「あなたはここに何か目的をもって来てるはずです」というのが大前提であって、「それは何なのですか」というのを確認する作業をしているのだと思うんですね。でも、患者さんは混乱した人も来ますから、初心者はすっかりトンチンカンなところにつき合って一時間くらい話を聞いてて、だから一体この人が何を相談したいのか分からなくなるのです。初めのうちはそういうふうに教えなければ一体相手が何を相談しに来たのかを、はっきりさせることがとてもむずかしいようです。何度も何度も教え込んでいって、ある程度のいい結果ができるようになると思うのです。


俳優はということをかねて今のお話うかがってましたんですけど、何か二つ難しさがあって、いわゆるさっきディベートとか言われたような、意を通すということで、その相手との違いということを確認しながら、言葉を交換するということが言われています。

 一つは、偶然ということがやっぱり対話においてはすごく働くと思うのです。例えばそれは、誰と話すかによって話す内容というのは絶対変わってきますから、だからそういう医者の面接にいかれてても、そのときたまたまどの先生が自分の担当になったかというか、どの先生に話を聞いて訴えることになったかということによって、話す内容というのはきっと全然変わってくるでしょう。で、それは誰がということもあるし、それから先程からコンテキストとメタ・コミュニケーションとおっしゃってるんですけど、どういう言葉が私はいいのかしら、僕なんか表情とか、目つきとか、しぐさとか、たたずまいとか、雰囲気というのは、個テキスト、言葉と並ぶもうひとつのテキストで、コンテクストとあえて区別して、個テキスト、コテキストと言ったりするんです、人類学の人なんかよく言うんですけど。だから言葉をテキスト化すると、ともにある言葉でない別のテキストも読み取るべきで、個テキストがお互いどういうふうに子どもにとって先生、先生にとって子どもの個テキストがどういうふうに働いているかということによっても、その都度会話、先生との調子なんかムチャクチャに、それが言葉はいつも、だからそれの相手が誰かということ、それからその人の個テキスト、言葉はいつもと同じだけれども違う個テキストというのを感じてしまって、それによって話す言葉って変わってくるという問題があって、これはだから平田さんの場合に、演劇ってワークショップの違いというのは、そのワークショップの場合というのは偶然性というようなものが出てくるだろう、その問題が一つあるのと、もう一つ何でしたか、偶然ということと、地震で忘れてしまった(笑)。まあいいや、まず対話の場合、偶然性ということが一方大きいと思います。


ワークショップの偶然性

ワークショップの場合難しいのは、偶然と技術のバランスというのがあって、どうしても例えば3時間なら3時間のワークショップの中で、こちらにここまでは伝えたいという技術があるわけです。それは大抵が、これはさっきの症例というのに近いかもしれないですけど、症例をカテゴライズする場合に近いかもしれないですが、こちらもやっぱりミステイクが何か起こるんですね、必ずここでつまるとかというのが、10組あれば必ず何組かは。それが出てきた時に、これはこういう技術で解決できますということを伝えるのが有効なんですけど、逆にいうと伝えたい技術が先が立っちゃうと、そのミスを待ってしまうようなところがあるわけで、でもミスが出ない回もあるんです、それが一番厄介。厄介というわけでもないんだけど、伝えたかったことを、どのタイミングで話そうかということになってしまう。そこは非常にワークショップの場合には偶然性に左右されるんですけど、逆に偶然性にゆだねないとしょうがないんですね、それは。やっぱり伝えたい技術が先に立っちゃうと、どうしても最終的に伝わらない、だからそこは偶然性にゆだねて、全部の技術はもう伝えなくてもいいやというふうに途中からは思い始めた。それはいつか機会があれば、本当はそんなことないんですけど、1回しかワークショップなんかないので。長いワークショップの時は、もっと僕のほうも余裕をもってできるんですけど。地方にいって1回だけ3時間だけワークショップですますというような場合には、それが難しい面はたしかにある。


思い出しました、だから今言った偶然の問題というのは、やっぱりその都度その都度のセッションで、ことの成りゆきというか、どういう組み合わせで全然変わってきますという面があって、それは共通してるような感じがするんですけど。

 もう一つ、カウンセリングとか、非常に相手が行き詰まってるというか、仕事をしてしんどいものを抱え込んでる場合の対話の難しさというのは、もう一つ何かあって、それは言葉というテキスト自体が、実はテキスト自体が重要な意味があるというよりも、本当に大事なことはほとんど言葉にできなくて、ちょっとずれた、本当の言葉の隣にあることを延々と語るというようなケースもあるんじゃないでしょうか。つまり核心……。


おっしゃってることは実際よくあります。今の私の問題意識は、それをさせないことです。裏に何か気づきはあるけど、それにふれるのがとても怖いことをもってきます。子どもは寡黙な子どもが多くて、彼らは多くの場合症状は抱えているし、言語化できないものを抱えています。そういうものがあるということをこっちが認め、安心感がないんだということをこっちが知り、それを治していくんだよということは示唆でき、なおかつ適当な治療法がありますよ、ということを伝えていくわけです。今は投薬が有効ですから、そのへんの、緊張を軽くするだけのことを初めにするだけでも、子どもというのはかなり緩むんですけれども。

怒涛のことばと沈黙から抜け出す

 病理があまり深くないという言い方をあえてしましょう。子ども自体のバランスを回復する力が強ければ、さほど親に会わなくても何とかなります。だけど子どもの抱え込んでいることが、民族や社会との絡み合いの中でということがあるわけです。親との絡み合いの中で起こってきていることであれば、子どもを動かすなかで親も動いてきます。親も納得しなければいけないことがあるわけです。で、待たせて、待たせて、もう親がじれて、何とか私のこともしてほしいみたいなことになるまで、あんまり接触しないこともあるんですが。お会いしたときに、それはワーッと出てくることがあるんですね、怒濤のように。で、それにいかに引きずられないか、それが本当に核心そのものであれば、人間は核心にふれたときには、やっぱり沈黙します、言葉の世界ではない世界に入っていって、そこにとどめるのが我々の本来の仕事です。そこに入っていってくれればいいけど、そこに入るたびにここにはないところを語る言葉を五万ともっていて、「こちらだよね」と言ったら、「それは何とかですね」と自分でラベル貼ってしまう人がたくさんいるわけです。いかにあちこちの話にとばないで、心の深いところにとどまるか、というのが、技術的にむずかしく、部下に教えるのに苦労するところです。

 だからエネルギーの出方ですよね、どこから出てくるか、言語的にシュウシュウ湯気が出るように出すこともできる、それは下からの煽りはまだあるわけですね。で、多くの治療と呼ばれているものというのは、家に帰って煽られ、社会で煽られ、そのはけ口というんでしょうか、入れ替えするだけのために来ていることが多い。とくにアメリカなどでは、自分の費用で治療を受ける人が多いですから、産業は成立させるためという点があるんだと思うのです。だけど、それってやっぱり本当じゃないですし、そういう患者さんに時間がかかればかかるほど、新しく次から次に子どもの狂気は生産されていくわけです。


それは難しいなと思うのは、言葉というレベルで、本当の苦しい問題は何かと、本当の誰もが年に関係なく、本当の自分というか、知りたいとかいう思いはあると思うのです。ところが言葉でそれを自分を探る、あるいは自分の今まで気づいていなかった自分に届くような言葉を見出だすということって、やっぱりものすごく難しいと思うのは、一方で、例えば僕ら自分の過去なんて考えた時に、自分が例えば子どもの時代のことでも覚えてることって両極端あって、ものすごくいまだに傷になってるというか、そういうことはやっぱりもちろん覚えているんですけど。他方で、どうでもいい、それ自体がどうして自分こんなしょうがないこと覚えているのかなという、断片的な、例えば物を触った時の、今でも僕はゴムか何かわからない、むうっと聞くと、固体と液体の間ぐらいな物を触った感触、それが何かわからないものの感触だけ覚えていて、どうしてこんな別にどうでもいいことを覚えているんだろうというような記憶があって。

 ある時僕はフロイドを読んですごくびっくりしたのは、フロイドというのは僕らの記憶というのは、全部ある種の隠蔽記憶であって、僕らは本当に人生で覚えてること、つまらない断片なんだけど、その断片を覚えてるのは、その黄金の隣にあるということが意味があるんで、つまり本当に大事なものとか、言いたくないものというものの横に、それを置換して、その隣にあるものばっかり覚えてるから、どうしてこんなこと覚えているんだとか、その間に脈絡が全然つかないという。

本当の自分というものはないだろう

 だから僕らの記憶ということ自体もあんまりあてにならなくて、だからそういうあてにならない記憶の中で自分というのを感じてるということがありますよね。だから自分だけの記憶ということですら、すごく、それがだから本当の自分というわけではない面がある。ところがそういうもどかしさがあるから、他方で昨今だったらアダルト・チルドレンみたいですけれども、ああいう物語が生産されると、それに飛び付いて、ああ、今の自分のこういう訳がわからん状態、実はこういうことでこうなってたんだという、今度は物語が与えられる、供給されることによって、逆に語りすぎてきれいなストーリーができてしまうという形で、やっぱり本当の自分とか、本当の問題というものをある意味でまたぎ越してしまう。で、かえってある種の解決に納得いくというか、いってしまうという面があって、何か言葉というのはそういうすごくチグハグで、語りすぎてしまうという、首尾一貫して語りすぎてしまうということと、どうでもいいことをうつうつと愚痴ばっかり言っていて、本当のところに届かないという、二重、両極端のずれみたいなものに責め苛まれるというのが、僕らが自分たちというものをとらえようとする時の、言葉のしんどさだ、根っこにあるものなのかなあと思うのですけどね。

 何となく僕は、それこそ高校の教科書とか、あるいは若い人たちに語りかける大人の言葉の中に、本当の自分という言葉が出てくるんですけど、そんなものは。


それはないと言うと変ですけど、そこはたしか芸術の仕事は、まさにその黄金の部分を手探りで見つけるようなところがあるので、まさにそうなんですけど。その時によく、今僕は大学でも教えているんですけど、大学生ぐらいだとやっぱり本当の自分というのがあるんだというような、とくに芸術系の志望の子だとそういう感じがやっぱりあるんですね。

 それ、そっちにいっちゃうと今度は、他人とのインターフェイスの部分が何にもなくなっちゃうんで、僕は逆だと思っているんです。インターフェイスの総体が自分だと思っているので、もちろん今こうして話している私と、妻と話している私といろんな私があって、例えば、よくタマネギとかラッキョウのように、例えばですけど、それじゃあ剥いて真ん中がなかったからといって、じゃあタマネギもラッキョウもないのかというとそんなことはないですね。それ全体でタマネギ、ラッキョウなわけで。とくに芸術系志望する学生はまずそこのところに気がついてもらいたいと思っているんですけど。

 あともう一つは、大学生ぐらいだと、価値観とか自分の感性とか、自分が人生のなかで何を大事と思っているかということを、他人にぶつけ合うという訓練がほとんどできてないので、それが一番辛いみたいです。大学1年生でも入って来て、いま僕の大学は1年しかいないので1年生を見るんですけど、何がたいへんかというとやっぱりそこが一番学生にとっては辛いみたいです。それまで、高校でとにかく大人の想定している答を当てる授業しか、クイズみたいな授業しか受けてきていないので、自分の価値観と他人の価値観をすり合わせるということは、ほとんど訓練としてもされてきてない。そこは見てて痛々しいぐらいにできない、ものすごく他人のことを気を遣う。表現をするにしても、両極端に分かれてしまって、非常に他者を完全にシャットアウトしたタイプの表現と、それから、あるいは他者、さっきの文脈でいうと他者が考えた答に合わせた、これはいわゆるテレビとかが一番大きいんですけど、テレビで見たような表現か、どっちかになる。その中間で右往左往するのが君達なんだよということを言うんだけれども、その中間のところということは、彼らは表現だと思ってないんです。例えば、君が大学へいって演劇を学ぶことに反対している両親とどう話すかということが表現なんだと僕は思っているんだけども、そういう部分が欠落しているわけでもないんだけども、そういうところに気がつくことができていない。


コアセルフという難問

今おっしゃったことで2つ思いついたことがります。1つは、もうずいぶん前ですね、私がこの業界に入ってきて読んだ本で、それは1960年代の初めぐらいに書かれた、アメリカのそういう精神療法の中でも、新しい領域の、個人の精神病理だけでなくて、家族の絡み合いも同時に見ていこうという視点で書かれた教科書の本です。もう亡くなった人ですけどカリスマ的と呼ばれた治療者と患者さんの父親との対話で、父親が自分は社会人としても成功して、夫としてもよくやってきたと思い、いろいろやってきた。いったいどこに何が欠けていたんだろう、と問いかけるのです。するとその治療者は一言、「そういういろんな顔を育てたやつはどうしたんだ」と言うんです。そういう中核的自分という感覚は、タマネギの皮的なものではなくて、それがいつも中心にあって、それが隠れてるときもあり、それかふっとかいま見える時もあるけど、その状況、その状況で、今は何が必要とされてるんだろうということに、センサーを働かせているような気がしています。

 ある子どもで、1ヶ月、2ヶ月前に交通事故があって、それ以来トラックのそばに寄れない、PTSD(Post Traumatic StressDisorder心的外傷後ストレス障害)的なことがあって、その子の恐怖を治療しています。自分の子どもの問題がだんだん解決してくる、子どもが強迫性障害かあったのが治っていく、子どもが学校が怖い場であったのが治っていくというふうなシフトが起こると、今度は否が応でも親が子どものことじゃなくなって、彼女、彼の中で否応でも自分の問題として表面化するわけです。

 お父さんたちで自分のことも何とかしてくださいという人がいて、その人の治療を引き受けざるを得ないこともあります。それこそ1歳半からよい子をずっとやっていたのかなと思える大人がいます。自分がそれに関して「いい」とか「嫌だ」とか思ったことはないままに、周囲に対して「イエス」「イエス」「イエス」「イエス」と言ってきて、ずうっと「イエス」「イエス」で40、50までやってきて、このリストラの時代で今も会社で「イエス」「イエス」とやってて、で、妻ともうまくいかない、子どもともうまくいかない、いったい自分は何なんだろうと考えて、見えてくるものは、中学生、小学生の頃のことなんです。だからやっぱり潜在的にはある。だけどそれが違う脈絡に入った時に、新しいものを試していく時には、やっぱり慣れないだろうなって、さっき痛々しく聴いていました。

 だから彼らには、「自分にはいろんな顔があるよね。どれもこれも実はバラバラじゃなくて、つながってるんだよね。」と伝えていくわけです。生を、生きてる間にね。中核的な自分とつながる人が少ないんだろうと思うけど、「そういうのがあるよね、あってもいいよね、」と伝えていて、自分で自分がそうすることを許可できたところで人って何とか折り合いをつけるんでしょうね。


他者の他者

コア・セルフというのが、コアという言葉で呼んでいいのか僕は正直なところよくわからないんですけど。もちろん僕らの「自分」というのは、いろんな属性とか役割ですね、社会のなかでの。例えば助教授、教授、そして学生としての、あるいは息子としての、親としての、いろんな人生の一員としては。そういう属性を束ねたからといって、それが「自分だ」という感覚はもてないというのが、これは誰でもそうだと思うのですよね。だからこそ今度は自分という問いがいつも出てくると思うのですけど。その時にいつも思うのは、たしかに人間というのは自分をそういういろんな属性じゃなくて、あるいは社会のなかでのいろんな自分の役割ではなくて、自分にとっての自分という、そういうものって動かせないと思うのですけど。ただ、それをストレートに問うていけば、つまり数年前流行った「私は誰?」というソフィの問いじゃないけれども、「私は誰?」という問いをそういう自分のコアにあるものをというふうに、内側に問うていくというのは、なんかすごく陥没していくというか、抜け道がないような感じがして、「私は誰?」という問いはたしかに重要なんだけど、それをあたかも自分のエッセンスと、自分の中にある潜在能力でもいいし、何でもいいんですけど、探すような方向にいくと、やっぱりみんななかなか自信もてないというか、ふん詰まりになることが多くて、もうそういう時に、いつもそういう問いはやめたほうがいいよと、「私は誰?」なんて問わなくていいよとよく言うんです、若い人に。

 そうではなくて、これは哲学者だったらヘーゲル、それから精神科医だったらレインという人の言葉なんですが、「他者の他者」という、つまりどういう他者の自分は彼女にとっての他者であるかということというのが、やっぱりとても意味があるし、そこから考え始めたらどうおって、よく言うんですよ。これは結局何が言いたいかというと、自分って誰かとか、あるいは本当に自分の本願て何かと考える時に、ちょっとスイッチを変えて、われわれというのはたった1人でもいい、100人もいなくていい、10人もいなくて、たった1人でもいいから、誰か他人にとって意味のある他人であり得たら生きていけるというようなところがあると思うのです。やっぱりいじめなんかでも一番僕強烈なのは、いじめのターゲットになるということ以上に、いじめのターゲットにすらならなくて、例えば自分が1週間学校を休んでいたとして、帰ってきても誰も「どうしたの」と聞いてくれないし、平常どおり自分がいようといまいと、平常どおり先生も教室の雰囲気も同じように進んでる時というのは、これはいじめのターゲットより、もうひとつダメージが深いと思う。つまりいかなる他者にとっても、自分が意味のある対象でなかったということだと思うのです。だからそういう意味で単なる属性とかあれではなしに、誰かにとって意味のある他者であるということへの欲望というのがものすごく、言葉では「私は誰?」という問いの形をとってるけど、実際には「他者の他者としての自分」というのが本当にあるんだろうかという問いというのは、結構きついと思うのです。

 だから僕は、昔から日本の文学って結構色恋沙汰のこと、例えば和歌集といったって、『古今和歌集』とかあんなんでも、ほとんどいろんな話が恋愛のことに翻訳されていわれていて、どうして僕らよく考えたら、世界中で日本の高校ほど色恋の歌を、古典の学習の正規の科目として教える文化って、滅多にないと思うのですけれども、愛の話ばかりですからね。それとは違う意味で、今のテレビドラマというのは全部恋愛だし、これほど若い人たちが恋愛というものに対して過剰な関心をもつ時代って、ひょっとしたら珍しいんじゃないか。若い人はみんな恋愛に夢中になるとはいえ、これほどみんなが恋愛ということを常に意識しているという。もちろん昔のような長いしつこい恋愛じゃなしに、ひょっとしたら3ヶ月くらいで終わる恋愛かもしれないけど、でもその3ヶ月の間は私はあの人にとってのワン・アンド・オンリーだという気持ちをもっていたいというのはすごく強くて、だから生涯でみたらものすごくたくさんの、20人ぐらいの人と付き合ったにしても、その時に例えば彼が裏切ったということは、ものすごく傷は深いという。

 なんか今「私」という問題をめぐって何か起こってるのという、そういう他者の他者としての自分を感じにくいという、そういう問題なんじゃないかなと。それがなんか一番最初の対話できるということにも、かかわってくるような気がして仕方がないです。


他者にどう見えているか

演劇の場合はまさにだから、まず一つは、演じるということを感じてもらいたいわけです、ふだんから演じているんだということを、ふだんから当然みな演じているわけです、いろんな役割を演じているんだけれども。ただ、演じるということは、ただ単に主体的に演じてるわけではなくて、演じるからには観る人がいるから演じるわけで、観る人に合わせて演じてるんだということを、まずとにかく気がついてもらいたいわけです。

 それともう1つは、今おっしゃられたように、他人にどう見えてるのかということ、これもワークショップの時にはよくやるんですけれども、とくにまったく知らない人同士のワークショップの時には、自己紹介の代わりにまず必ず、2組ずつに分かれてもらって5分間話をして、話をした人が紹介するというところからまず始める。どう見えたかということ、この人はどういう人ですということをまず紹介していくんですけど。そういうことから始まって、次に演じるということと、どう見られているのかということが対になっているんだということに気がついてもらうことが大事だ。これは一番最初にも言いましたけど、いままでの演劇教室とか、演劇教育というのは、どうしてもセリフの言い方とか、どう演じるかということですね、そこが中心だったんです。それがずいぶん変わってはきてますね、演劇の世界ではずいぶん。まだ主流ではない、主流はやっぱり表現、豊かな表現力とか。「表現力」というまず力をとにかく取ろうというところを今やっているんですけど、力はいらないという。


崎尾さんのご本の中にあった文章で、今の話の脈絡でふっと思い出したのは、嬉しいとか、悲しいとか、寂しいとか、どんな人間の感情も他人とかかわらない感情ってないんだっていわれてたのを、なんかふっと思い出したんですけど。ふつうなんか表現って考える時に、内側にある自分の感情を外に、エクスプレッションですから中から外に押し出すということを考えて、絵画を評価する場合なんかでも、長い間本人が表現されているのか。あるいは文章の場合でも、作者がどういう思想があれ、感情が表現されてるかという、内部にある感情がそういうふうに外に押し出される、目に見える形で、あるいは読める形で押し出されてるかと考えますけど。本当にそうなのかなあというのを考えた時に、崎尾さん、感情というのは、これは崎尾さんのことでなくて、もともと、内部にあるものではなくというのは僕の勝手につけた上のセリフなんですけど。あと、どんな感情も他人とのかかわりのない感情なんていうのは、かかわりなしにはあり得ないんだとおっしゃったことが、すごく今ふっと思い出されたんですけど。


ミュー・ファンクション

私は今ベイトソンから抜けかけて、やっぱりベイトソンに戻るところが、いっぱいあります。やっぱり哺乳動物として生きてきた年月の関係性のなかで規定されているものって、とても大きいです。今うちの若手の女医さんの1人が赤ちゃん生んで、もう2歳すぎで、ですからしょっちゅう出入りしてるから、いろんなことをその子は教えてくれて、その子も学ぶわけです。その子は言葉を覚え始めてて、人間の言葉には甘えを表現する言葉がないんだということに気がつくわけです。それでこの子が甘えたい時に、「ミャオ」とやるんですね(笑)。それでベイトソンは「猫がミャア、ミャアといってるのは、あれは依存したいといってるんだ」というくだりがあって、私も何度も本に引用してて。英語ではあれば猫はミューとなきますから、彼はミュー・ファンクションと名付けました。私は○○ちゃんがお母さんの後ろに隠れて「ニャアオ」というのを見て、日本だったらニャオだけど、英語だったらミュー・ファンクションですよね。

 それほどに私たちに原始的なところが残っています。それはいつもわれわれのなかにあるんだと思うのです。それを先程絵画のことをおっしゃったけど、絵画を見てて、どっか心をうつとしますね、何かが心をうつんだよなあ、何なんだろうと思ってて、そこに自分の好意をもってる人がそばにいて、「いゃあ、ここのところそれがいいよね」と言ったなら、相手の感覚が自分のと合ってるか違ってるかで嬉しかったり、むかついたりするわけです。大体そういうものかなとは思いますね。

複数のアイデンティティを祝福する

 それとさっきおっしゃった、コア・セルフ、いろんなアイデンティティの話が出てたんですが、ちょっとこれも参考になるからと思って言おうと思ったのが、私どもの領域でわれわれのようなプロがさらに育たなければいけないわけですいつもいつも。そういう勉強会がよくあるわけです。そういうなかでやる練習の一つに、3人でひとりになって、AとBとCなんです、まずAが主人公です。BとCがサポート役で、BがAに向かって「あなたはどなたですか」と聞くわけです。そうするとAさんは、自分のアイデンティティを、私は大学の先生でもいいし、私はお父さんでもいいし、夫でもいいし何かを言うわけです。それで自分はその教授なら教授の方でも、「うん、自分は教授だよな」と、そのアイデンティティを感じるわけです。Bはそれを受けて「そうですね、あなたはどこどこの先生であるということはわかります」。そうするとCももうひとり横から「私にもそれがわかります」と言うわけですよ。それで、と同時に今度はCのほうが、想像を働かせなければいけないんだけど、例えば、今鷲田さんがメンバーになっておられたら、またたぶんどなたかの夫であろうと思うわけです。だから学校の先生であると同時に、この人に夫の面もあるよねとCが思ったら、初めにBが聞いたから、Cのほうが「でもあなたはたぶん夫でもあるんだと思うのですよ」とそうなるわけです。そうすると、あっそうか、Aさんは自分にはああいう面があって、別の面もあるなとそういうムードになって、これは本気になってもらえる。そうするとBさんがもう一回Aに向かって、「そうですね、あなたにはそんな面もあると思うのです」、するとBとCの2人が同時に、学校の先生、大学の先生でもあり、だれかの夫である、同時にそういう2人でいられるのはすばらしいですね、みたいなことを言うわけです。その時には本当に、2つのアイデンティティがそこに存在できるということに対して祝福をするわけです。それを今度はBがやって、Cがやって、何ラウンドもするとだんだんネタが切れるわけです。「誰かのお兄さんだよね」とか言って、「誰かの孫だよね」とか、時には「非常に不機嫌な人だよね」とか、「時にはとても無邪気な子どもだよね」とか。

 私たちはいろんなアイデンティティがあるけれども、いつもそれを意識できてるわけではない。それがバラバラになって、本当にバラバラになったときに、生きてる衝動みたいなものがシューッと出てくるのが、この頃少年たちの暴力事件です。そういうものを自分の中に抱え込んでいけるための容れ物を人間につくるのは、大事な仕事なんです。それを抱え込めるためには、セラピストが抱え込めなければいけないので、そういうことをやるなかで私たちは自分たちのアイデンティティをメタで見るようになるわけです。そうするとあれもあるよね、これもあるよね、あれもある、でも本当にそうじゃない自分がいるからこそ、あれを演じているんだよねという感覚が、やっぱりコアというとこにだんだんつながるわけです。それって脳の新しい進化をとげたところというよりも哺乳類的なあるいは爬虫類的な部分というのでしょうか、もっと感覚に基づいた存在している自分。それがたぶん祝福されてないんだと思うんです。子どもの時分に。


言葉が感情を作る

言葉と感情ということを考える時に、ひとつ、僕の犬が死んだ時の話なんです。僕犬が臨終の直前に、僕の顔見てキョトンンとした顔しているんです、ジステンバーで亡くなったんですけど。何か自分の体の中で何か異変が起こってる、でもまだ若い犬だったんですけど、それが何か自分でわからないでキョトンとして、起こっていることが何かというのが自分でわからなかったと思うのですけど。人間も意外と感情ということを考える時、そういう面があって、おれは簡単に、ああ今日はなんか寂しいなとか、なんか嬉しいなとかいうふうに言うんだけども。それでもうひとつの話だけど、フランスのマルセルという哲学者がいるんですけど、かれが日記の中でおもしろいこと書いていて、「もしも人間というものが言葉というものをもたなかったら、今自分を襲っているこの感情がどういうものかというのは、ほとんどわからなかっただろう」というんです。だから僕の死ぬ時の犬みたいな感じで。

 たしかにそうなんです、僕なんか自分の体験からいうと、もう嬉しくて嬉しくてはしゃぎすぎて、大喜びしたあと、ああ疲れたというような感じで、ふっとしらんだ気分に、空白みたいな、空虚な気分になるときと、それから何か嫌なことがあったり、悲しいことがあって、もう泣いて泣いて泣いた果てに、何かポッと最後到達した気分というのは、なんかすごいエンプティq空っぽrというような感覚で、別に嬉しいも悲しいもくそもない。案外大喜びしたあとも、大泣きしたあとも、たどりついた時の感情って、ほとんど同じような気分になる時があって、マルセルが言ってるのはこういうことなのかな。

 だから本当の感情というのは僕らにとっては、ニュアンスはいろんなニュアンスがあって、表情があるんだけど、それをただ子どもの時からそういう言葉で表現することを教わるでしょう。お母さんがとくにそれを極端にやるでしょう、子どもの感情に対して、あるいはやったことに対してお母さんの感情的反応というのは、ものすごいシンプルじゃないですか、教育的意味があって、ニコッとするか、メンメ!と怖い顔するかとか、こうやって怒るとか、悲しそうな顔するか、それで口でも丁寧に丁寧に「今あなたの中で起こってことはこういうことなんですよ」、それから「今あなたがしたことの意味っていうのは、こういうことなんですよ」というようなことを確認する。そういう形で感情という訳のわからないものの掴まえ方ということ、あるいは行為というものがもっているいろんな意味の中で、これはこういう行為なんだということを、代々伝えていくわけです。僕らそういうステレオ・タイプの言葉の中で、枠組みの中で自分を理解しているだけにすぎないのであって、そういうふうに考えてくると、感情というのは本当に私的なものなのか、起こってることは私的、プライベートな、自分に起こってることだけど、それを嬉しいとか、悲しいとか考えるという、自分が了解してるということ自体が、もうすでにある社会性を、そういう意味では帯びているのではないか。そういう社会的な表現に、もうすでに自分の感情を理解すること自体が、もうすでにある種そういう社会的表現というような意味を、最初からもっているのではないかという感じがするんですよね。


とくに表現の、芸術方面を目指す学生にいつも言ってることは、当然そのなかで、例えば喜怒哀楽みたいなはっきりしたカテゴリーじゃないものというのが、私たちにとっては大事なものなんだということです。なんかときめいたりとか、それはまだ言葉にならないです、それは与えられてないし。で、ここにこそ人の違いが大きく出るんです。でも、子どもたちが劇をつくろうとすると、こつちの大きな感情のほうで表現しようとする、これは非常にわかりやすいものになってしまうのですけど。そのわかりにくいものを、わかりにくいからこそ他者に伝えなければいけないし、伝える価値があるんですけど、ここはなかなかたどりつけないです、やっぱり17、8だとまだそこまでなかなかいかない。


内臓感覚のことば

でも、なんていうのかな、さっき甘えるというのは言葉にならないとおっしゃったけど、もうひとつ、腹が立つというか、なんか具体的な対象に腹が立つのではなしに、いまとにかくここに自分がいて、あるいはこの空気がとにかくなんかスカッとせんといういらいらっというのがあるでしょう。そういうのって結構時代ごとに、腹から出てくる言葉が違って、最近はなんか「キレる」というんですか、よく若い人の流行語のように。少し前は「ムカツク」だったけど、僕らのときは「頭にくる」とか、腹が立つと「あったまにくる」という言い方がありましたね。こういうことってたしかに流行語ではあるんですけど、他方ですごい自分のいらだちとか、不適応感とか、あるいは拒否感ですね、あるいは喪失感、そういうものを表現する時に、非常にステレオ・タイプなんだけど、時代とともに変わってるということにすごい興味があって。どうして「頭にくる」が「ムカツク」になって、そして「キレル」にいくのか、僕は勝手にすごい独断的な解釈してるのは、「頭にくる」というのは要するに体の部位のどこかで表現できたのが、まだ10年ぐらいたってみんなが「ムカツク、ムカツク」と言ったのは、今度は内臓感覚、このへんの名状しがたい内臓感覚になってきて、そして「キレル」というのはほとんど皮膚感覚の世界、もう瞬間的な、ちょっとふれただけでピーッと反応がきれてしまうというか、なんかそういう意味ですごい身体感覚の時代の変化というか、身体性の時代の変化というものが、意外とそういう「頭にくる」「ムカツク」「キレル」という、いらいら、拒絶感の中に出てるような気もするんですよね。


だからそういう言葉を、そういう言葉をもって言うと変ですけど、それからさっきの甘えるというのは演劇的にみるとすごくおもしろくて、そういう言葉、でも甘えるという行為はあるわけですね年とっても。


そうです、年とった時に「ニャー」とか言えたりね。


言えたらいいですけどね(笑)。


ウーウーがいい

これは言葉じゃないです、本当に哺乳動物としては発語なんです。その○○ちゃんというのは「ミャー、ミャー」とやるもんですから、今度はうちの若手の男性は、じゃあムカツいてる時はどういう音を出せばいいんですかというと言うから、「ウーウー」と言おうよという話になって、なんか気分が悪い時は「ウーウー」とやるわけです。それをやるほうがムカツいてる、キレルと言うよりも、やっぱりガットフィーリングで感じられる。「ウーウー」言ってるほうが、自分にとってはバイブレーションがいいですよ。


そこをだから芸術を志す若い人たちには、そこに気がついてもらいたくって、あるプロセスを踏んで芸術表現をすると、その「ミュー」でも「ニャー」でも、あるいは「ウー」でも、と同じだけの効果をもたらせて、あっこの人今舞台上に立ってるこの役者が、ああこの人ものすごく甘えてるんだなとか、この人は本当にムカツいてるんだなということが、言葉ではなくてわかる瞬間があるわけです舞台表現で。例えば、それは絵でもそうですね、この作家むかついているなとわかる絵があるわけです(笑)。この作家甘えていたいんだなとわかる、それが芸術のすばらしいとこなんですけど、それがたぶん2歳とかでもうとまっちゃうんだと思うのです。


とめられます。


言葉にならないものは全部排除される。


「ムカツク」とか「キレル」いうのも、実はだから言葉じゃないんじゃないでしょうか。


身体感覚です。


だからどんなシチュエーションでも、違う人でも同じ言葉で通用するんですね、うなり声みたいなものだから。


そうですね、でもよりうなり声のほうが、普遍性があるような気がするんですけど。


あと、先程の3人でやるトレーニングの話は、僕の演劇のワークショップの中でも似たようなことやってて、ワークショップですからトレーニングとはまたちょっと違うのですけれども。僕たちがやっているのは、真ん中で社会的な会話が行われているんです3人ぐらいで、例えば科学者とかそういう役割に応じた。そこで外側では、例えばなんか「コーヒーにする?、紅茶にする?」とかっていう話とか、なんか恋愛の話とか。


この間の演劇に出たでしょう世田谷で、あれがそうなんですね、こっちで話してるのに、この間で奥さん同士がしゃべったりとか、お客さんと女中さんがしゃべったりとか。


あれをワークショップでやるんです。まず最初にテキストがあって、見てもらって、そのあとに基本的に説明をするんですけど、基本的にドラマというのは、社会的な役割を演じてる人たちの中に、人間的な会話が浸蝕してくると、笑いというのが起こるようになってるんです。簡単に言えば、タキシードを着た紳士がバナナの皮に滑るとおもしろいというのは、タキシードを着た紳士というのは社会的な存在であって、でもどんな人間でもバナナの皮の上に立てば転ぶよというのがおもしろいところなわけで。そこをだから、例えばこうやってすごい一生懸命話をしているんだけれども、ここにサラ金の取り立てが来れば、で、鷲田さん連れていかれちゃったら、この2人すごい困るわけです。何だったの今の真面目の話はという、これは喜劇になるんですね。

 例えば、高校生なんかに説明する時には、先生が生徒を職員室に呼び出してお説教をしているんだけど、そこに先生の奥さんから電話が掛かってきて、「帰りにちょっと挽き肉500グラム買ってきてね」と言われると、これは家庭という人間的なものに足を引っ張られて、先生の権威が落ちてしまう、ここに喜劇が起きる。ここでもどういう刺激を与えればおもしろいかを、やっぱりグループで考えてもらうんです。ただ、これ刺激が強すぎると、今度はこの社会性が崩れてしまうのです、それの例もいろいろ見せるわけです。例えばこうやってて、ここで例えば、崎尾さんを好きな人が通ってちょっとちゃちゃを入れる。次は崎尾さんが好きな人が通ってついてどっかへいっちゃう、そのぐらいだとまだこの2人は、ああいっちゃったよと。ところが「火事だあ!」と言って通ると、もうこの3人は社会性どころではなくみんな逃げてしまうからお芝居続かなくなる。でも「火事だあ!」というのも身体に迫る危険なんで、これも人間性のひとつなんですけれども、刺激が強すぎるとドラマはもう続かなくなる。どのぐらいの刺激が一番いいかということを考えて、そのドラマの要素をちょっと発見してもらうということなんですけど。

 まさにさっきの社会性、いろんな側面をもってるという部分で、私たちはふだんの人間生活のなかで、必ずそのバランスを無意識にとって生活しているんだと思うのです。社会性が強すぎると息が苦しくなってしまうし、人間的な会話だけだと奥行きがなくなってしまうので、そのバランスをとってたぶん生活をしているんで、それをうまくあるモデルにしたのがたぶん演劇というものだと僕は思っています。それはすごくさっきのトレーニングの話を聴いていて、近いところがあるなと思って。


コアとつながっていられること

一番わかるのは、いかにトレーニングというものが表層かということなわけですよ。私どもの職業だったら、お免状もらって数年やったら、はい私はこのプロですよと名刺に刷ることはできるわけです、名刺はそれ以上のこと語りませんよね。だけど本当にAさんという人とBさんという人とCさんという人が、同じお免状、同じ臨床経験があっても、子どもと語ったときに、子どもはなにを見るかというと、そのお免状の後ろにある、その人がどういう人生を生きてきて、何を感じ取ってくれてというところでスーッと子どもって入っていくわけです。だから私の表面につくってる顔がどれほど表層的であるか、それを益々強化している世の中で、さっきからちょっとここにあまり話題が出てなくて、私なら一番触れられるかなと思ったのは、私どもの仕事をしていると、自分の中核とか中心ということはものすごく意識しないといけないわけです、そことつながってなかったら、初めのほうで例で出しましたように、相手のもってるモードとちゃんと協調しちゃうから。ただ、若い人同士がその人たち同士の話ですごく盛り上がるのは、同じレゾナンスq共鳴rでやってるからであって、そこに違う人が来た時に、まったく違うバイブレーションを持ち込むから、しらけたりするわけです。

 基本的に人は援助しようという職業にあると、基本的に共感とかいわれるような、「合わせますよ」モードをもってるわけです。病気の人が来てるんですから、病的な人は病的なモードをもってるわけです。それで初めは他者に対して、医者に対しての顔をしてても、その人にとって中核的な子どもに対する不安とか不満とか、夫に対する、妻に対する不満や不安などが、出てきたときには、いったんそこのチャネルに入ったら、出るものはワンワンワン出てくることがあるわけです。そのワンワンと出てる裏で何言ってるかというと、実は「不安」、「不安」、「不安」、であったり、「依存」、「依存」、「依存」だったりするんです。それは言葉の影に隠れて、中核じゃないこと、ワーッと言うわけです。その時にワーッと言うのにくっついてったら、いったいあなた何しにきたのみたいなことを私にあとから「インテーク」ととった医者が言われるわけですから、何とかしてとどまろう、とどまろうと彼らはするわけです。とどまる時にやっぱり訓練なりしなければいけないのは、自分のコアセルフ。


共鳴する自分を壊すということですか。


いえいえ、コア、中核としての自分がいかにここに身体性としていて、身体性としているだけではなくて、地面とつながってて、なんか通過するものがワンワンと体、身体性を通って感じられるような状態に自分をおいておくことが、難しいということです。

 人間って同時にいくつものこと考えられませんから、何かのことに思いをいたすようになると、体の感覚が飛ぶわけです。どういうふうに飛ぶかというと、自分のお尻が椅子についてる感じとか、足が裏に一緒についてる感じとか、こういう触覚みたいなものが消えてしまう。それでそこに戻していって、触感を感じながらそこにいさせるというふうなことは、かなり訓練でしないといけない。本当は触感がなくたって、自分の中心とつながってる。われわれのDNAの中にある一番古い部分というのは、岩の上に乗っかってるだけの虫だった時期があるわけです。それはみんなの中にある。その時に一番考えた脳というのは頭じゃなかったんですね、今のおへその下、指二、三本のあたりへんにある脳です。脳の中にある神経伝達物質とか神経繊維とかと同じものが、ここの太陽神経叢にあって、これはどういうわけか古代からの知恵で日本では腹と呼ばれる部分なんですけど。どの文化でもわりと腹というのは力を入れてきてたんです。英語文化圏が優勢になるまでは。で、米国は知的なところで動くことの怖さを感じた人たちや、キリスト教にどうしても飽き足らなくなった人たちが東洋に向かっていって、やっぱり目覚めていくのは密教の世界で、密教の世界というのは一番そういう中核の自分というのを言いますよね。

 ですからこの私どものやっている領域で、ちやんと精神療法ができる人というのは、そのへんのところを今一番やるんですね。それはおそらくお2人の領域では、さほど話題にはならないのかなと思うのです。だけどそことつながってないといけない。多くの刺激というのは、そこから我々を離すように離すようにしているので、意識的に戻るつもりにならないと、ワーッと浮かんだ状態になってて、子どもたちはやっぱりアテンションを母親なら母親に与えて、そこの向くところを見て、それをやってればプラスの評価がくるということをやるなかで、いざ自分が裸でさらされてる時、じゃあどの役割やったらいいの、自分にはっきり、こうしたらいいんだよというコンテクストのメッセージ出してくれる人いない時に、どうやったらいいのという大学生がたくさんいるということになります。コアセルフにつながっていくことを、もうちょっといろんなところで言語的表現がなされることが必要かなあと思いました。

 それともう一つ、たしかに芸術家というのはそこのところにつながっておられるんでしょうけど、やっぱりいろんなその人のもってる社会的脈絡がありますよね、やっぱり家庭や、家族による歪みみたいなものもあります。芸術家の中にも、あっ、この人は話せるというのと、どうもねというのがいろいろあるわけです。そこで、私から見てですよ、ああ本当にいろんな意味で、すごいなと思える人というのは、そういういろんな自分の縛りみたいなもの、小さい時からの縛りみたいなのを一つ一つそれなりに解けた人が、いろんなものとつながれて広がりをもてるのかなあと思います。


ひとつは、結局そうでないと生き残っていけないというところがあるわけです。だからこれも学生たちに最初の授業の時に言うんですけど、僕の友人とか一緒に演劇をやってきた連中でも、やっぱり精神壊してしまう人間が多いわけです、圧倒的にそれはもう比率からして多いです一般人に比べて。それは当たり前だと思うのですけど。四六時中そういう人間の孤独みたいなものと、向き合わざるを得ないわけですから。だから学生たちによく言うのは、そこまでしてやる必要はない、芸術をやるんだから覚悟は必要ですね、とにかくそれは。でも死んだらお終いだから、僕の友人でもやっぱり死んだ人間もいますし、だからその手前でとにかくやめてくれと。でも本当にプロになる人間は、その手前までは少なくともいかないとしょうがないので、それはもうだから本当にチキンレースみたいなとこあるんです、どこまでいけるかというとこ。先へいっちゃったら崖に落ちてしまうのですけど、それは本当芸術の場合にはしょうがないです、芸術を本当の最高のレベルでやろうと思ったら、そのことはしょうがない。

 でもその中で、自分のある種の異常性みたいなものがどこに根差しているのかとか、あるいは社会との関わりのなかで、それをどういうふうに処理していけるのかということが、ある程度何らかの形で意識的ではないと、とくに今の日本の芸術の世界では生きていけないことはたしかです、それはもうはっきりしている。


ポリフォニックな対話

崎尾さんが、トレーニングというのがある意味で、むしろ表層的な面があるとおっしゃったことと、平田さんの演劇の話とで思いついたことというのは、平田さんのその劇、この間観せていただいた劇ですけど、真ん中に戦前の韓国での日本人一族とか、その周辺の人たちが背景になって、そこに大工さんがいたりとか、その息子がいたりとか、おじさんがいたり、そういうテーブルだけ置いてあるだけなんです。そこにいろんな人が来ておしゃべりするという時に、すごい、演劇が僕は、なんでこんなリアルな演劇なんだと、初めてこんなリアルな演劇観たと思ったのは、いままで僕が観てきた演劇というのは、言葉がリニアに並んでいるんですよ。つまり対話とか会話というのが、一方が何か言うと、それを聞き手が今度それを何か言葉を返して、それを聞いてまた話し手がしゃべってというふうに、言葉のキャッチボールのようにして描かれているんですよね。

 ところが平田さんの初めて見せてくれた演劇というのは、ここである対話が行われている時、横にまた別の全然関係ないのがポリフォニックに積み重なっている。ここは黙って聴いてくださっていますけど、よく考えたら僕らの日常で、ふだん家で夫婦でしゃべったら、子どもはここでガチャガチャやってて、おばあちゃんがやってるとか、あるいは出前の人が来たりとか、そういうようなのが本当のリアルなんで、その都度会話が、先程言ったように誰かがいなくなることで途絶えたり、話がコロッと変わってしまったりとかいう、そういう行き当たりばったりで、結構会話自体って流れていくと思うのです。

 それを一番極端にした例というのは、友人の人類学者に聞いたんですけど、アフリカのある社会の会話というのは、みんなが重唱して、歌の斉唱とか重唱、二重唱、三重唱、多重唱やってる。つまりここに6人がいたら6人一斉にしゃべるんですって。それでそれぞれが勝手にワーッとしゃべってて、ああ終わったという感じだ。日本だったらB型の人が集まって会話すると、相手のこと言わないで聞いて、しゃべるだけでみんなスッとして、ああしゃべったという、それは何の根拠もないことですけど(笑)。そういうような会話というのが現実にはあり得るわけで、みんながだから言葉のキャッチボールするのではなしに、重唱し合うというようなこともあって、だから会話ということと、おっしゃってた人の身体性の問題ということと絡めていくと、会話の問題も急にいろんな、言葉以外の次元というのが出てくるように思うのです。とくに何重唱のようにみんながしゃべり続けるような会話、つまりキャッチボール、リニアに言葉が交替に出てこない会話の形式というのは、それこそおっしゃってる身体性というのがむしろすごく前面に出てきていて、言葉が話すとか語るということ自体が、もうほとんど体の行為としてそれは出て、お互いがそういう身体性を交換し合ってるという、言葉のメッセージそのもの以上に、身体性の共振であるとか、あるいは言葉の肌理を感じ合ってるというか、なんかそこでほとんどコミュニケーションが成り立ってしまってるというような次元というのが、やっぱりあるような感じがします。

 だから僕は先程、「ムカツク」とか「キレル」という言葉が、ほとんどうなりに近いんじゃないかと言ったのは、その「キレル」という言葉自体が重要なのではなしに、「キレル」という言葉が腹から出ているというか、先程のお腹の話だと、そういうような形で多重唱してるような会話というのが、案外僕ら日常の中でやってることとしてあるのではないかと思うのです。

 一番おもしろいのは、電車の中だって、女子中学生ぐらいか5、6人で、ワーッと雀が鳴いてるように、それぞれがワーッと言って、ほとんど同じ言葉でやってるのに、そのうちの4人、5人がパッと電車を降りて、1人あと残った子どもが放心状態というか、体をなくしたような存在になって、急にそれまであんなに生き生きした子が、あのまま立ってられるかなと思うような、ひょろひょろっとした存在に見えたりすることがあるんですけれどもね。


わりと最近読んだ本でおもしろかったのが、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』です。女性の主人公で、自分の魂に目覚めていくというふうなストーリーです。そのボーイフレンドというのが奇跡的な治療を行える修道士の男性で、ルルドとかスペインのあのへんの話なんです。それでルルドなんかにいって、その女性のことをこの男性はすごく好きなわけです。この男性は手に特殊な力をもらってて、奇跡を行えるわけです。彼女はいかに彼のことが好きであっても、それだけの恵まれたものをもってる人が、いくら自分を今愛してくれているといっても、それは嘘に違いない、私みたいに価値がないものをと思う気持ちからだんだんだんだん気持ちを引いていく。でもこの人についていくのが私の本当の使命かもしれないと思って、やっと彼女が決心した時には、彼は彼女のことがあまりに好きだから、自分の手にある霊的な力をないことにしてくださいとマリア様に頼んで、失ったあとにお互いにそれを告白し合う。最後は男のほうがもう一回自分の力を頼めるような気がするというハッピーエンドで終わっていく。女性の魂の変遷で、自分がだんだん見えていく話なんですけど、その中で2ヶ所ぐらい今のような、話がでてきます。

 みんなが他国語でしゃべって、何しゃべってるかわからないけど、なんかワーッと通じてるそういう世界が何回か語られてて、それも本当にいろいろ。でもやっぱりあの子たちがその世界を通過して、ひとりになって家に帰った時に感じるもの、コアセルフはないのだろうと思うので、何かそれってちょっとはかないよね。だけどそういう現象ってやっぱりとても深いものを探してる人たちにも起こり得るんであって、やっぱり人間の根源的な大事な部分なのかなあと、今聴いてて思いましたね。


だからみんなおっしゃられるコアセルフに当たるものというのは、どっか飢えるようにして探してるけど到達できない、言葉では到達できないということが、もうひとつ体でも到達できないのではないかということですよね。そこに難しさがあると思うのです。つまりおっしゃるように、自分がこの場所にあって、この大地を踏みしめている自分の身体的な存在感とでもいいますか、そういうものからできるだけ乖離しないように、もう一度そこに立ち戻れというふうにカウンセラーの方たち。


自分が戻らないと相手が戻らない

自分が戻らないと相手が戻らないという話をしているんです。


だからそのカウンセラーの人に戻りなさいというふうに指導なさるのはよくわかるんですけど、ところがさっきのキャッキャッ言ったような若い人たちにとっては、結局そのすべてを、例えば「ムカツク」と表現するのと同じように、その体の感覚においてもやっぱりおっしゃられるコアになる身体感覚というのは、非常に難しいそれにたどりつくところが。むしろ彼女たち、彼女たちというのはむしろそれを探すための絶望的な行為として、むしろ体を傷つけるという、体を攻撃することで逆に自分のそこに痛みとか、無視できない感覚が発生しますから、そのことでかろうじて確認できてるというようなところがあって、それは本当に耳開ける穴の痛みから始まって、手首を切るもそうだし、それから拒食とか過食というのもある意味では、もちろん自分が生理的な次元ですらセルフコントロール失うことでもあるけど、あれも一種の考えてみれば無意識で自分の身体を攻撃している、あるいは生理を攻撃してるというような面があって、何か今の自分の身体的な存在感、自分のコアにあるような身体感ということ自体が、ものすごく手が届きにくくなっている、自分の中にあるはずなのにそれがわからないという、そういう苦しさというのもある。


人間の脳の三層配電モデル

私のもってる人間の脳の三層配電盤モデルというのがありまして、人間の脳っておそらくその一番もとの根っこのところは無視するとして、爬虫類的な部分と哺乳類的な部分と人間的なところを、私は配電盤みたいに三層で、いっぱい豆電球がついてるというふうに連想したんです。上と下は全部電線でつながっていて、ADHDみたいな場合は、やっぱりここのところがピコピコ、ピコピコ点滅してて、上のほうで抑制が効かないからあんなふうになるんだろうとか、それとか理屈ばっかりこねて、それはこういうことだ、ああいうことだと言ってるけれども、その人の身体性が感じられない人というのは、上のとこばかりピコピコ点滅してて、下のほうは本当に不安というところと連動して上が点いているんだろうとか。そういうふうなことを一回イメージして部下に説明したら、すごくわかってくれたことから、いつもそのモデルに戻るんですけど。

 おそらく病院に来る人たちというのは、安心じゃないから、いろんな理屈をつけたり、自分であちこちにアテンションを向けることで生き延びてきてるわけです。だから医者が目の前にきても、微細にわたっていろんな説明はするんだけど、じゃあ今いったいあなたは何のことなの、と問われると、基本的には私は母親として失敗しましたとか、私は自分の人生失敗しましたでもいいんだけど、その私は基本的にダメな人間だというところを認めちゃうと、もう身も蓋もないから、そこからひたすら逃げることをしていて、こうなってしまったのに、ここにきてもひたすら逃げないといけないという感じがあるんです。本当に失敗した感じで終りなんですよねと言うと、それはもう認めてくれます。そこに居てください、と、とどめるわけです。そこに居てくださいと言う時に何をするかというと、私自身がズーンと、自分の身体性全部で椅子に降りるというか、椅子にとどまる。そこから動かないでいようねという感覚は、多くの場合目を使うのですけど、相手の目をいったん見て、「そこにいようね」と言うと、どうも三層から成る上の方からだけじゃなくて、ピコピコピコと下までいくんですねこれが。だから関係性の中でないと感じないというのは、こっちがそのモードでいったら、それが、バイブレーションを起こし得るんです。


なるほどね。それの本当の実例のような出来事を最近見たんですけど、ダンスセラピーでそれを見たんです。普通ダンスセラピーって、舞踏の方とかいろんな方が精神病院なんかでなさってるんですけど、僕が見たのは本当にダンサーでありながら臨床心理士の訓練をアメリカで受けてというか、大学で勉強して、両方ともできる、治療もできるしダンス、ソロ活動もなさってる方ですけど、その方のセラピー見て、まあ二つ見たんですけど、重度の入院患者の方の、それはもうグループ・セッションですごい、見てるとこっちまでボーッと眠たくなってくるようなドローンとしたものだったんですけど。通院患者の方の個人セッションを4人でなさっていて、ひとりずつマン・ツー・マンでやられて、その間はほかの人は休んでというか、うずくまっていらっしゃるんですけど。その時におっしゃった、関係の中で体が働くというのはすごい感じたのは、言葉は全然使わないそういったセッションなんですけど。彼女は最初は「相手をうつす」とおっしゃるんです、つまり向き合ってやるんですけど、必ず体がゆがんでるというか、何となくバランスがとれていないというので、彼女自身もバランス崩して、相手の体の崩れ具合を映してあげてるんです。その時に、それに最初は全然感応しないで、ボーッとしてらっしゃるだけなんですけれども、2つが同じ対のペアとして2つの体が働き出す瞬間、ここにまず第1回目のセッションにたどりつくのが大変らしいのですけれども。

 つまり、そういう患者さんの場合、多くの体というのは、単体で陥没してるんですね。相手が目の前にピューッと手をやっても反応しないというか、そのペアで動かない。まずこの人は手をやったらよけるようになるところまでまずいかなければならない、そういう自分を防御する壁というのをもてるまで。だから最初はとにかくいろんなことを挑発しながら、こう押したら引くとか、ジャンケンして一緒の時間を体で経験する。要するに同じ時間の中に2つの身体が並ぶように、あるいはそういう共通の時間の場の中に引き入れるというとこまでやると、第1段階がうまくいくらしいのですけど。そういう段階になってくると、相手の体、崩れをうつしてるうちに、本当にセラピストの先生が倒れそうになると相手の人が支えるようになってくるんですね。そうするともうそれは、最初は自分を救ってるという意味から、他者の身体を支えるという行為へと、今度は働きかけにまでいくという。それでも全然動かない人には、今度うずくまってるのに、同じようにうずくまって、相手よりまたさらに、相手の下に潜り込むぐらいじーっと潜り込んでいく。それだけをやってらっしゃると、相手の人が急になんか破裂したように泣き出されたりとか、いろんな相手によって違うのです。あと、抱き合ってるだけとか、だからすごい、僕たぶん体のコアというのに働きかけるためには、自分自身がそのコアを自分の中に、コアの部分から自分の体の動かし、相手の鏡になる、ペアになっていくという、それこそ身をかけた運動というのをやる。

 だからあのダンスセラピーというのは、だからおっしゃってる身体のコアみたいなものが、しかも関係として対として働くようになれば、もう大丈夫なんだと、第1段階は。何かそういうことをやる試みのようにして、見てたんですけどね。


「それをしても安心なんだよ」というメタのもの

何をお伝えしたかったかというと、「それをしても安心なんだよ」というメタのものというのがそこになかったら、やっぱり相手が逃げるのを私もくっついていっちゃうということです。それを本来人間は出来る力が、だれにでも備わっているはずだし、そのへんが今の現代社会のなかで益々、本来もってるものを生かすような言語の組み合わせ方、というのがすごく求められるのだろうなと思います。


もう少し前におっしゃられた、当然トレーニングは必要ですよね。それから臨床経験が必要ですよね。それからそれ以外に、これはもう演出家もまったく同じなんですけど、個人の生活というか、その職場以外で個人を磨くというと変ですけど、芸術家の場合でいえば芸術的なセンスを磨いておかないといけないので、いくら訓練を積んで、いくら研究を積んでも、本人に表現の核がないと何もなくなってしまうのですけど。

 臨床医の場合にはそれはどう、プライオリティーはないかもしれませんけど、今の若いお医者さんとか医者を目指す方にとっては、どこが一番重要なんですか、どこが核、それは人それぞれですか。


わりと見学に来たいという人は多いわけです。例えば、私たちが昼休み、年中スーパービジョンやってるようなとこありますから、擦れ違いざまに「これはこうなって、ああなって」と、いつもいつもあれがどうなって、こうなってと相談し合っているので、そういう場に本当にスッと入れる人、またはその人がいるだけでみんなのそういうバイブレーションに、シューッと抑制がかかるような人って、いますね。ただ、そこにワーッと抑制をかけるような人が、もともと研修したいと来ることはあまりなくて、やっぱりちょっと違うところから、「自分はそのままでいたいわ」とか、「私は何十年何をやっておりまして」みたいなのが来られたら、うちの若手がみんな反応しちゃって、あの人がいたら話せないとか言うから、お帰り願ったりしますが(笑)。

 内的なものでは、ものすごくみんなそのへんへの憧れはあるんです。ただ、その憧れそのものも、自分が是としてよい脈絡にいるかどうかということがありますね。多くの場合そういうことは触れてはならない、そういうことを言ってもならない、狂気というのは恥であるという文化がまだまだ大きいです。やっぱり相対化してモノ化して、記述していくこと、で、専門家としての顔をして、そこから相手から益々離れることが。論文いくつ書くことがみたいななかに、価値観を見出だす。それをすることが認められること、コアセルフとつながらない場合には、他者からの評価しかないわけですから。だから他者からの、論文をいくつ書いたとか、どういう研究をしているというところでしか、自分を認めることができないようなところに若くしてはまっちゃった人はかわいそうですね。結構いますけど。

 でも、彼らの中にもそういう憧れがあるのは感じますし、だけど身体疾患として重たいものなんかの場合は、それを診てるお医者さんたちというのは、最後は診たくないわけです。ない、どうしても体だけを診ることになってしまう。体だけという時に、今も治療というのはご存じのようにステロイドが中心のことが多いです。基本的にステロイド、あとは切るとか、チューブ入れるとか、絶食させるとか、何か本当に乱暴。でもそういう扱い方をされて、体に侵襲を受けることで、患者として尊重されるというように感じる人たちもいっぱいいるわけです。そうすると慢性化しやすくなる。慢性疾患で治らないとお医者さんたちも飽きてくる。時には少し目が覚めてきたのか、これってうちの科だけじゃないよねと思って、相談があったりして、医者は何とかわかってきたら、今度は患者のほうが、でもやっぱり体の病気だからみたいに逃げを図ったり、そういうのの日々ですね。だから憧れはあっても怖い、近づきたいけど怖い、それはいつも感じるんです。


最初のコミュニケーション、初めての人うまくとれないというのは、お医者さんの世界にも実は起こってることです。つまりそれは批判的な意味で言ってるのではなくて、お医者さんの中にも、自分は医者に向いてないんじゃないだろうかとか、初対面の患者さんとうまく話せないという形で脱落していく方って、いらっしゃるでしょうね。


それはすごいです。


ああ、今の世代は。


私の部下の友達が違う領域でやっていて、いろいろああだこうだ話をすることがあると、よそから見ると羨ましいと見えるようです。自分にとって生きてくうえで中核的な問題を感じることが出来たり、そういうことをしても、怖くない場所にいられるということについては、羨ましいというのは聞こえてきます。おっしゃったように今の医学の中ですることはたしかに一見格好いいわけです、何かものを操作して人を操作する、非常に操作的なオリエンテーションが強い中で育った子どもが、それに意味を見出だしますよね。だけどそれやっていくと、どの治療もそうですけど、治療をやった副作用が年月たって出てきます。年月たって出てきた時には、それを背負わなければいけないし、何かいけないことしたという、自責の念と同時に新しい治療をしなければいけないわけですから、もう本当にそれは皆さんトラウマだらけでたいへんですよ。それは高度医療やればやるほど実感しますね。そういう問題があることを否定しなければいけない人が多いわけですから、そういう中でひしめきあってます。


演劇ではどうなんですか、先程崎尾さんがおっしゃられたことなんか。


アイディアとイメージは違う

僕らの今演劇専攻、全体では80人ぐらいいるんですけど、僕が直接見てるのは40人ぐらいなんですけど。1年生で入ってくるのは結構演劇部の部長とかでバリバリやってた子が結構入って来るんですね。彼らを見ていると一番足りないのは、たしかなイメージをもてないこと。芸術とか演劇なんていうのは個人の妄想をいかにイメージにするかなんです。妄想は誰でももっているんですけど、それが形になるかならないかで勝負するんです。別の方法で、例えばそれが犯罪という形になってしまう場合もあるわけですそれが、たまたま芸術作品に結びつくから犯罪にならなかったわけですから。だけど結局それを、とくに集団で共有しないといけないので、集団で共有する場合にはそれが妄想が妄想のままではダメなので、イメージとしてはっきり他人に語れないといけないんですね。

 ここは日本語の言葉の問題でもあるし、社会全体の問題でもあるのですけど、アイディアとイメージというのが非常に混同されていて、子どもたちがもっているのはまだアイディアなんです、イメージにはなってないです。イメージというのは像ですから、ある程度の形がなければいけないのだけれども、そこにはなってないです、言葉も与えられてない。絵を描けといってもいいんです、別に何となく伝わればいいんだから、音楽にできてもいいんだけれども、まだ何もなくて漠然とした頭の中のアイディアなんです。でも本人たちはそのアイディアで充足してしまってるんです。高校演劇レベルだとそれでもセンスがいいと、それでやっていけるんです、リーダーシップがとれる、これでいこうという。結果がよければ勝てる。だけど大学ぐらいになると、その同じぐらいの高いレベルの子が集まってきますから、どうしても他人を説得しなければいけないし、その説得の技術がものすごい下手なんです。うまく自分の気持ちを他人に、曖昧なものをきちんと他人に、曖昧なままで説明するということができない。ここが大事なんですけど、曖昧なものをわかりやすく説明することの訓練は多少受けているんです、作品を書くとか、だけどそれだと芸術にはならないです。曖昧なものを曖昧なままで、「ほら、格好いいでしょう」とか、「ほら、きれいでしょう」というふうにダイレクトにイメージで伝えないといけない。で、他人もたしかにこっちよりこっちのほうがきれいだというふうに思ってもらわなければいけないんだけれども、それはなかなか難しいです。それから、それをある強いプレッシャーの中でもできないといけないです。疲れてたりとか、眠かったりとか、あるいは評価がものすごく問われる時にも冷静にできないといけないのですが、そういうふうな状態になればなるほどできなくなるんです。

曖昧なままでも選択できる

 まずいったん、これは全然別の類いのワークショップで、これは演劇をやる人たちのためだけのワークショップなんですけど、とくに大学1年で入って来た人たちなんかに、頭を柔らかくしてもらうための創作を行います。『ゴドーを待ちながら』という作品があって、2人がゴドーというよくわからない存在のものを待ってるという不条理劇なんです。これを使って不条理劇を作ろうというワークショップをやるんですけど、これはとにかく何でもいいんだ。単語を100ぐらいワーッと並べる、その中からみんなに選ばせるんです、「何々と何々が何々を待ってる」。例えば「アメリカと沢庵がイワシを待ってる」とか、選ぶわけです全員が。30人なら30人、そうするとやっぱりセンスのいい選び方とセンスの悪い選び方が出る。それはなぜかわからない、でも言葉に対するセンスというものはあるということはわかるんです。そういうことの経験というのは高校までの間にはほとんどないです、曖昧なものが曖昧なままでもうちゃんと差がつくんだということは。曖昧のものをはっりさせないと差がつかないと思っているんです。でも曖昧なものでも私たちは、人生の中で必ず選択をしているんです、どっちがいいかということを、そこが芸術のおもしろいとこなんです。


テイストですね。


うん、どっちがいいかなんていうのは、理屈では絶対にわからないです。AとかBとか評価ができるものではないんだけれども、私は絶対こっちのほうがいい、で、しかもそれはバラバラになる、バラバラになるけれどもある偏りができる。そうすると大体30人なら30人だと半分ぐらいの子が1人のものに集中して「これがいい」と言う。それから3人ぐらいずつのグループがあって、1人だけ絶対私はこれがいいというのもいるんだけれども、大体それは非常に健全なんです、必ず健全な方向にいくんです。それが社会としても健全だと思うのです、大体半分ぐらいの人は1つのものをやっぱり支持するんです。じゃあ自分はどのグループに属して芸術活動を行っていくのか。そういう感覚をまず身につけてもらうようなところから始めるのですけど、なかなかそれはでも骨身にしみるのは、たぶん3、4年、もうちょっとかかるかなあ。


分からないこと

でもある意味じゃ戦後生まれの世代というのは、みんなわかることで勝負する世界で教育を受けてきたわけでしょう。いつもたとえ話で言うんですけど、模擬テストとか入試の時に最初に何やるかというと、わかる、解ける、答えがすぐ出せる問題と出せない問題を仕分けて、わるものから解いていって、時間が余ったらわからないもののほうも考えようという思考法ですね。

 でも、今度人生では逆で、もうわかってることは、知ったことは忘れてもいいんですよもうできるから。だからわからないものに、わからないままにどう関わるかという、その技術が生きる知恵だし。それから極端な話、政治ってそういうものだと思うのですよ。答えがすぐには見えない、あまりにもいろんな条件が重なりすぎて、偶然もあって、コンフリクトもあって、どうなるかわからないことにどう対処するかを、今すぐ何らかの形で対処する方法を講じないといけない、決断しないといけない。その一種の勘みたいなもので、政治ってどちらがいいかということだから。だからそういう意味で生きるうえでの知恵とか、あるいは政治的な判断力とか、あるいは芸術的なテイストの問題とかは、今おっしゃったようにわからないものとか曖昧なものは、それなりに対応するという能力だと思うのです。


ただ、そこが学生には難しいというかかわいそうだと思います。だってわからないものはわからないままにしなさい、でも言葉にはしなさいというわけですから。彼らにとっては言葉にするということは、わかりやすくするということなんです、でも芸術の世界ですから言葉にしても、詩的言語ならば絶対そこでは成立するんです。だから一番簡単な方法は、僕がやってみせるのが一番いいんですけど、「これと、これと、これ」と僕が選ぶと、「ああ」と言ってみんなが納得するけど(笑)、それはちょっとかわいそうなんだけど、その訓練を積んでもらうしかないです、これはまさにトレーニングでしか身につかない。しかもあるプレッシャーの中でこれを、トレーニングしないかぎりは、何となくやっているのでは身につかない、芸術の場合には。一般向けのワークショップでは、もうちょっとゆるい部分でもやっていけるんですけど。

負荷が大きいほどナチュラルになる

 さっきの同時多発の話で、いろんな同時多発の会話を、あれもワークショップでやります。結構最後の段階でやるんですけど、あれは比較的高校生とかだと反射神経でできるんです。あれはまさに言葉を、セリフをセリフとして考えるのではなくて、話すということを身体の行為の一つとして考えてもらうということなんです。どうしてもセリフをもらうと、俳優はこのセリフをどう言おうかということに集中してしまうのです。実際に今までの演劇教育も、セリフに集中しなさいという教育だったんですけれども。例えばこうしゃべっている時に、ここをひとり通るのを気にしながらしゃべるのと、気にしないでしゃべるのとでは全然違うわけです。で、一人に向かってしゃべっているんだけれども、別の人が入ってくると、「ああ、ちょっと、ちょっと」といって、他に意識がいってしまうというようなテキストを繰り返しやっていくわけです。そうすると話すという行為が実は気にするという行為と等価なんだ全部という感じがつかめてくる。それからお茶を飲みながら、気にしながら話す、どんどん負荷を与えていくんです。そうするとどんどんセリフはナチュラルになっていくんです。


ああ、かえってね、なるほど。


これが難しいとこなんですけど、負荷をどんどん与えれば与えるほど、セリフに対する力の比重は減るんです、言葉に対する力の比重は。


でも、言葉は確かになっている。


ところが、やっぱり訓練を積んでないと集中力が低下するんで、セリフ間違えちゃったりとか。


ああそうかそうか。


相手のセリフ言っちゃったりするんです。うちの俳優はそれを高度に訓練を積んで制御はされているので、絶対に間違わずにすべてのことを行います。これ最終的にはどういうふうにうちの俳優はなってるかというと、例えば、机の上にいろんなお茶とかお菓子とか置いてありますよね、何が見えてるかということと、自分が何をしゃべってるかということが連動してるんです、彼らの頭の中では。だからただセリフを順番にしゃべっているわけではないです。鷲田さんのセリフ聞いて僕はしゃべってるというふうな構造に彼らの知覚はなってないんです。そうではなくて、もちろんセリフの音も一つなんですけど、逆に一つの要素にすぎないんです。ここで見えてるものと、セリフと聞こえる音と全部を一体で記憶してるみたい。今それは東大のアフォーダンスの佐々木正人さんの研究室の学生がずうっとうちのほうを4年か5年研究、全部ビデオに撮って研究しているんですけど。僕たちは体験的にどうもそういうメカニズムになってるらしいということはわかってたんです。たまたまその研究者が来て、どうもそうらしいということが判ってきた。それはなんかパイロットのシミュレーションとかと同じで、パイロットが飛行場に着く時には、ボタンの操作を順番に覚えているわけではなくて、その景色の見えとボタンが連動してるらしいです。


昔のアートメモリーみたいな、記憶術みたいなもんですよね、あれが見えるということと。


だからそのセリフを覚えるとか、セリフの順番を覚えるということ、もちろん最初は覚えるんですけど俳優ですから、それと同時に環境を覚えるということなんです。それは非常に重要なことで、結局演劇史の話になってしまうのですけど、一番最初に話していた新劇を観て嫌いになっちゃったという、いわゆる新劇というのは近代劇ですので、言語中心主義で言葉というのが重要で、そういう理性に基づいて、人間はある感情に基づいてあるセリフをしゃべるというふうに考えられていたわけです。だからある感情の状態をつくっておけば、悲しそうに見えたり、楽しそうに見えたりする。次に日本でいうと60年代以降にアングラ小劇場というのが出てきて、そんなに人間というのは理性的な生き物でもないよというので、身体とか情念とか衝動とかということがキーワードになって、それが社会の動きとも連動して、日本ではアングラ劇が盛んになったわけですけど。

 90年代に入って僕たちのような演劇が出てきて、それ何で出てきたかというと、ロゴスにしろ、あるいはパトスでもエロスでも何でもいいんですけど、どうもこれまでの演劇は、人間の主体性というものを信じすぎているんじゃないかという感じがするわけです、僕たちの年代の感覚からいうと。そんなに人間は主体的にしゃべってないよという感じなわけです。だからアングラ小劇場がアンチ近代で、人間はそんなに理性的にしゃべってないよという批判だったのに対して、それもそうだけど、じゃあその主体性を盲目的に信じるのも、やっぱり近代の枠組みの中なんじゃないかという感じがしてるわけです。で、僕がこうやってしゃべってる時にも、皆さんがどのぐらい僕の話を聞いてるかとか、この部屋の大きさとか、外部からの音とか、いろんなことを無意識に感じ取って私はしゃべっているわけで、それは僕の中にもちろんしゃべりたいことがあるからしゃべっている部分と、それから環境によってしゃべらされている部分が必ず人間の中にはあって、それは決して人間の主体性を否定するものではないと僕は思うのです。そうではなくて、主体性のおよぶ範囲をもうちょっとはっきりさせようよという、盲目的にその主体性を信じるのではなくて、関係とか環境の中でしゃべっている人間というものをもう少し考えようじゃないかということが、90年代に出てきた演劇の一つの大きな特徴なんです。

 でも実際にはこれは優れた俳優はみんなそういうことをしてきたわけです、相手役の力を使ってやる。先程ヨーロッパの行き詰まった人たちが、日本の例えば密教とか、そういうものにというのと同じものが演劇でもあって、外国の演劇のトレーニングでも、とくに集中力を高める方法のトレーニングでは、ヨガとか太極拳とか、よく使われているんです。それから合気道も非常に盛んです、演劇教育の中では、相手の力を使うということなんです。そういう考えはヨーロッパの演劇にはほとんどなかったので、主体的にどれだけうまくしゃべるかということが主だったので、そういう点では非常に90年代にこういう演劇が出てきたのは、ひとつの大きな時代の流れと合ってるところはあると思うのです。


歪みのコミュニケーション

子どもというのは生まれ育っていくなかで、どこでどういう表情しましょうとか、どこでどういう言葉を出しましょうとか、そういうのってまさに本当にしつけられていくわけです。症状をもってる子ども、例えばそれは盗みでもいいわけですけど、おしっこを漏らすのでもいいわけですけど。盗みの子なんていうのは、昔から伝統的にフロイド的な意味においても、盗みというのは愛情飢餓だとされてきた。本来もらいたい愛情をもらえないから、よそからもらうんだという発想ですね。盗む子というのは盗んだ時に強く叱られるわけです。大体そういうところの親というのは、ちゃんと親はしつけていないからこうなったというモードがあって、そういうことを親が教えてなかったら、よそにいったら何するかわからないと思うからこそ、強く叱責をするのです。その子どもがもともと盗みをしてしまうのには、何か違うことがあって言えないから盗むのに、このことに強い感情的な強化が起こるので、もらえない情緒的な「ミュー、ミュー」は言えない状態ですから、なんか感情的な関わりをとるためには、盗みに走らざるを得ないということ、なおかつ、満たされたいのに満たされてない自分は出せてないわけです。自分の中にいっぱい抑圧しているものがある、それをパッと衝動的に出るときに、そういう衝動があってはいけないから乖離して忘れてしまう。

 子どもがそういう中から抜け出していくなかで、自分がほしいと直観的に思っているものを、あなたはくれなかったよねというふうなことを、くれたつもりの人に言わなければいけない。これはものすごく子どもにとっては、親を傷つけますし、親も一番聞きたくないことですよね。われわれのコミュニケーションの「あんたはちっとも私がほしいものをくれてないじゃないか」と、子どもは本当は言いたいわけだけど、言えないまま育っていって、その歪みのコミュニケーションを社会にもっていって、何となく通じないとまた同じことを繰り返すわけです。

 だからその主体という話になった時に、主体っていったいどこまで主体かといったら、子どもに「今困ってることなあに」と一応常識的に聞くと、そんな子は「ない」というわけです。「時々盗んじゃうんだけど、その時叱られるし、その時には本当に後悔するし、今のところ3ヶ月盗んでないし」と言うわけです。で、いろんなとこに振っていって、「困ることははないと言うけど、本当は困ってて、困っていることを認めるのが難しいんだよね」みたいなところまで入れれば、その1回目は成功なんです。

 そういうふうにする中で、自分が本当に言いたいことがあるのかもしれない、言いたいことがあるということを認めることも許可してもらえなかったのかもしれない。それ自分で許可することっていうのは、必ずしも親批判じゃなくて、それは自分の感覚としてあってもいいんだみたいなことを、相当に詰めないと、親への罪意識から言えないこともいっぱいあるわけです。それをでも、これは私が言っていいことだ。親は親でよかれと思ってやったけど、ちっともよくなかったら言っていいことだと思う時に、今度はそこも支えなければいけないときに、いったいどこまでの主体意識というのは、他者との中で支えられなければいけないかということがあると思うのです。その他者は本来は大人であるべきであって、簡単にいえば子どもは直観的にノーということに関しては、直観的に「ノー」と言ったら、その結果がどうなろうと、あっちの道へいくんだと言ってそっちの道へいったら転んじゃってもいいわけです。少々のことで直感でやっても、すぐそれが大事故にはつながらないわけです。だめだめと抑えていると抑え込まれた衝動がやっぱり抑鬱感情になっていき、抑鬱感情はパーッと攻撃性になって出てくるのが今の世の中です。主体性を、自分が探していけば必ず関係性のなかで何かが起こる。そのへんはいろいろなところで、親子関係に、いつもルートはあるんだというのは、もうちょっと広がって、ピーアールされるといいと思うのです。


伝わらないということを実感する機会が、少ない

僕は子どもたちと付き合っていて感じるのは、今のお話とたぶん近いところがあると思うのですけど、子どもが自分の言ってる、ほとんどの場合、普通の生活を営んでる子どもと僕は接するわけですけれども、逆に自分の思っていることが伝わらないという経験とか自覚をする機会が、ものすごい少ないという感じがするんです。伝わってないことはあるはずなんです。


それを避けてる。


無意識に避けている。だから高校演劇なんかで今生徒の創作がすごい多いのですけど、ものすごい楽観的なんです作品が。そこでは、伝わることが前提なんです、とにかく。だから観客に対しても楽観的なんです。技術的に伝えようとしないです。僕はとにかく大学に入って来る生徒にも言うし、高校のワークショップでも言うんだけども、とにかく伝わらないということを骨身にしみないと、これ始まらないんです表現、とくに芸術表現は。ラブレターを書くようなものだというのですけと、書いて「ふん」て破り捨てられて、一生懸命書くようになるんだと思うのです。「私はあなたのことがこんなに好きなのに、なんであなたは私のことをわかってくれないの」というところが始まりだと思う。ただ、ひとつには実際の現実問題として少子化で、兄弟も少ないですから、子どもの言うことを何でも親は大体察して、ものもちょっといえばすぐ出してくれるし、友達同士の中でも伝わる中でコミュニケーションしないですから、ふだん伝わらないという経験が極端に少なくなってるという感じがするんです。


伝わらないことはないという、大脳皮質の活動をいつも活性化しておかないと、やっぱりやっていけない世界にいるんだと思いますけど。


でも、現実問題としては、いつか絶対に彼らも人生の不条理にはぶち当たるわけで、少なくとも自分の大事にしてる人をなくすとか、親が死ぬとか、もっと早い段階で恋愛で挫折することもあるわけだし、人によってはまたどうせ適当に通り抜けるのかもしれないけど。でも通り抜けてるつもりでも、いつかはのっぴきならないところに立つと思うのです。僕は演劇というのはそういう寂しさに耐えるためのシミュレーションだと僕は思っているので、そこをすり抜けてしまうと、芸術やってる意味もなくなってしまう、表現行為やってる意味もなくなってしまうので、そこはすごく感じますね。伝わらないという経験、経験というか意識がほとんどない。


逆の面もあって、伝わらないという経験がないというのと、そうではなしに自分の出した言葉、吐いた言葉が、何の抵抗もなしにスーッと吸い込まれて終りという、そういう悲しみみたいなものにとらわれている。こう聞かされている若い人というのがいる。


こういうと語弊があるかもしれませんが、ものを盗んじゃったりする方が他を見ると何か健全という感じさえするわけです。少なくとも表現者としては健全なんですねそっちのほうが。何にもなくて全部伝わるような子が、演劇やりに来るというほうが、僕にとっては変な話で。


だから、なんか案外いい子がね、しんどいけど、いい子というのはそのしんどいことをまた表現しないというか、飲み込むというようなところがあって、たしかに不登校とかいう形で学校の問題というのは、通学ということに困難を抱え込む子もいるけれど、ちゃんと通学できていて、そしてかわいそうによくできるのでほかの子から浮き上がらないようにわざと国語の時間に教科書読み間違えして、浮き上がらないようにしていって、みんなの仲間の間でもいい子だし、先生からしてもまあまあできるからいい子という、このなんか意外と深い悲しみみたいなものがある。なんかいい子がかえって生きにくいというような面も、今の社会にはあるような気がします。


「何とかなるんだよ」というメッセージを、社会がちゃんと出していない

いや、本当にそうだと思います。だからさっき平田さんが言われた、いったいどこで不条理に目覚め、のっぴきならなくなるか。うちに来る子たちはわりと人生の早期にのっぴきならなくなるわけですよ。その時に援助が与えられて何とかなる子もいれば、援助ををもらえなくて死を選ぶ子もいます。自分なりの屈折した人生を生きてく中で、どっかで見つけることもできると思うのです。だけど、やっぱりどこかでくると、きたときにそれを拒絶するのでも、それが狂気であらわしたり、または犯罪という形に走った時に、形式として犯罪とされる時に、私などは非常に心痛むものを感じるわけです。今の犯罪に対する世の中の対処というのは、何ら意義のある人間の形成の切り替えをさせるわけではないですから。それでそういう処罰が与えられると、「ほら、ああなっちゃうでしょう」という形で、そうならない方向に向けるようなことによって、また別の負担をかけていく。ああなる子どもたちの痛みというのを人間が理解し得るようになっていかないといけないと思うのですけど。いつもいつも彼らがどっかでのっぴきならなくなった時に、「それって何とかなるんだよ」というメッセージを、社会がちゃんと出していない。それはだから、弱者の中にこそ潜在的な脅威、強さがあり、それを早く出せば出すほど本当は強いんだというパラドックスって、すごく感じているんですね。


ある種対立することを、一遍に自分たちに求めてるのかもしれない。つまり完全に傷ついてしまうことをあらかじめ避けるというか、常に傷つくことを避ける、相手を傷つけることを避けるという、事故が起こること、傷が発生すること自体を避けるということと。それと他方では、傷といってもいいのかしら、とにかく決定的なこと、のっぴきならないこと、どうしようもないことって、他方でものすごく触れたいという気持ちもあると思うのです。だからそういうなんか正反対のことを、一遍に求めているような感じがして。だから、例えば決定的なことって、今の社会のなかで決定的なこと、あるいはこの社会には完全に脱落することって、ものすごく難しくなってる社会で、例えば親って昔の親に比べたらすごくものわかりいいから、例えば一大決心でこんなこと言ったら絶対親は反対するだろうと、演劇をするでもいいですけど、生き方を言ったとき、「ああ、そういう生き方もあるね」とか親に言われるということは、理解されることであるかもしれないけど、同時にああそうか、自分が決定的だと思ったことは、いろんな可能性の一つなんだ、結局ワン・オブ・ゼムなんだなということで、決定的でないということを言われたようなものじゃないですか。

 あるいはもう70年代のパンクじゃないけど、おれはもうこの社会全体が気にくわないんだ、おれはこの社会から外に出てしまうという形で、パンクの格好しても、今度はメディアの人とかが寄ってきて、テレビでこんなおもしろい風俗があるとして、ムードのワン・オブ・ゼムの中にもう一度入れられてしまって、外に出られなくなるという、そういうしんどさというのがあって、それを他方で若い人の傷つくことは事前に巧妙に避けるような道を選ぶという部分とも、うまく微妙に連動しているような気がするんですけどね。


創作のほうのワークショップでは、よく、まず価値観をおっしゃるとおりもうぶっつけ合いにくいんですものすごく。そうじゃないとそれもオーケー、あれもオーケーということになるので。よくやるのは『ロミオとジュリエット』を使うのですけど、『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーンを演じてもらうのです、セリフは変えていいということで。現代で許されない恋愛の話にしてくださいと言うと、2人1組でやるんですけど、これは困るんですみんな、ないんです、許されない恋愛はないんですなかなか(笑)。


おもしろいという提題ですね、それは。


それで普通は大体同性愛あたり。


でも今はね(笑)。


そうそう。それも許される。で、ただこれおもしろいのは、例えば主婦の方と女子高生とかが一緒にワークショップをやって話し合うんです。主婦の人が、まあ同性愛くらいでいくと考える。そうすると一応僕はファシリテーターですから、決定は絶対しないけど、議論になるようにしていかないといけないので、一応聞くわけです。「じゃあお母さんは息子さんが、これが婚約者ですといって男連れて来ても大丈夫ですね」と言うと、「いや、ちょっとそれは」とか言う。女子高生のほうに、「じゃあお兄ちゃんがそれを連れてきたらどう?」と言うと、「ちょっと格好いいかもしれない」とかって。いろいろ価値観の差がちょっとずつ出る、で、これはいけるかなあとか、じゃあ例えば近親相姦ならどうかとかという話になっていく。大事な点は、そんなことは、家族でも話してないですね、まあ当たり前ですけど(笑)。自分たちは同性愛許せるかどうかなんて、普通は家族は話さないので。今はそういうことを、いうなればくだらない話のシミュレーションというのをする場もなくなってしまっていると思う。それは非常に大事なことだと僕は思っているのです。


そのことの関連で思うのは、今の多様性とかということが、すごい尊重される社会じゃないですか。この多様性というのはもちろんすごい大きな意味があったことで、とくに社会のなかでマイノリティーというものの存在、権利というか、そういうものを、あるいはその人たちをいかに理解するか、それは何も人種的な問題だけではなしに、いろんな意味で体の障害の問題とかああいうことで、バリアフリーにするという意味でも、多様性とか、異文化としてあるということの尊重というのは、ものすごく大事なことであることは間違いないのですけど。他方で多様性という言葉が独り歩き、その背景というものを失って独り歩きしたときに、今おっしゃったそれもあり、それもありねということで、結局本当の意味でコミュニケーションが成り立たないきっかけになってしまうということもあって、僕は多様性という概念というのは、結構注意しないといけない概念かなというふうに思うのです。

 多様性の概念の怖さというのは、僕なんか思うのは、多様性の概念、現在の多様性というのはマルチカルチュラルという時には、文化の単一性を前提にして、その複数の共存ということを考えるということですね。あるいは社会の中だったら、個人のユニティーというのはやっぱり崩さないで、ユニティーということを認めたうえでのさまざまな人たちの結びつき方、あるいはひとつの存在の仕方の多様性ということを尊重しようということなんですけど。その多様性の思想というのをむしろ貫徹していくと、ユニティーになっているひとつの文化とか、それからひとりの個人というもの、そういうもの自体がひとつの多様なものであるということを認めていくところまでいかないという、それがたぶんさっき平田さんがおっしゃった、あまり主体、どれがなんかひとつの完結した主体として、全部主体的に行動してるわけではないという、自分の中にさまざまな、自分でもわからないものとか、あるいは意識している自分と実は裏腹な、逆の感情があったよとかと、自分自身がある意味で多様な場であるというということまで、実は多様性の問題というのは含んでるという感じがするんです。


対立することを恐れない

たぶん私はこれで最後の発言になると思うのですけど、何でも許されるという話が出てきて、で、その流れの中からお話しますが。日本ではそういう本がないのですが、アメリカで出版されている本のひとつの付録に、これ自殺した子の話なんですけど、自殺する子、死を覚悟するような子どもと自分がすぐそばにいる時に、いったいなにができるかというのがあります。死にたいと言った時に、「何言ってるんだ、死んじゃいけない」ということも含めて、対立することを恐れるな。とくに思春期の子どもに対しては、衝突し、自分の大人なら大人のもってる価値観というのをガンとぶつけてやってくれと。そういうものがないからこそ子どもたちは引っ掛かるところがなくて、絶望するんだという。そうだよねと思うわけです。やっぱり本当に自分のいるところがない子、目立たない子というのは、とてもはかないわけだけど、自分が言ったことに対して、「お前そうじゃないよ」って、言われてあまりこれが強いとパンクしてしまうわけです、これに対して抵抗として。そのシステムとは無関係になろうと思うけど、結果的には体系的につながってる状態は、逃げることはできないわけですけれども。衝突することもなかったら、自分が生きてる実感もないわけです。やっぱり対話というのはある意味ではどっかで衝突から始まるかというところはあると思います。


そこで難しいのは、今の学校教育の制度だと、最初に教師が何かを示してしまうわけです、だから衝突が起こらないです。


あらかじめ起こらないようにしてある組織なんです。


だからそこのところで、順番としては今の制度のなかでやるんだとすれば、学生、生徒の側からまず価値観を提示させるような枠組みをもっていないと、まずダメだと思うのです。僕なんか表現教育をやってますから、そうするとさっき言ったような、伝わらないということを生徒が切実に思ってくれないと、僕の出番はないんです。切実に思った時に技術を提供してあげると、それはものすごく食いついてくるわけです、当たり前ですよね、ラブレター代書しますよという話ですから、それはもう切実ですから「じゃあお願いします、もういくら払ってもいいです」という(笑)。


わかりやすいですね。


そこのところでやっぱり切実さをもってもらわないと、一方的にこちらから何か価値観、世界観を示しても、もうそれはまったく意味がないと。


でも子どもの叫びって切実なんです、どうであれ。


だからそれをどう見つけていくかということ。


とても潜在的には「ワンワン」と言ってるんだと思うんだけど。


(了)